となると、そうした流動性を担保した国が世界のどこにでもあるというものではないことはすぐに想像がつくだろう。

 インドの伝統的カースト制度、イスラム原理主義社会における女性の立場、はたまたある種の共産主義社会などを想起するまでもなく、社会的流動性が確保されていない国は決して珍しくはない。

 ならば、いわゆる先進国ならどうか。先進国なら、さすがに社会の流動性自体はある程度担保されているだろう。だがその場合、今度はそこに「出世したい人が大勢いるかどうか」が問題となる。特に、その出世のために身を削るような奮闘努力が必要となる場合、そうした犠牲を厭わない人ばかりとは限らないからだ。

 現状維持で十分、今不足がないならば、今必要とされる以上の仕事をする意味がないと考えるのんびりした国民性を持つ国というのは、一般に日本人が想像する以上にたくさんある。語弊を恐れずに言うならば、カトリック系のラテン民族諸国にその傾向が強い。

アメリカと日本でのみ
自己啓発本が栄える理由

 アメリカの場合、厳格なカルヴァン主義に基づくピューリタニズムが蔓延していた社会がまずあって、そこにニューソートという新しい宗教概念が入り込み、「個人の努力次第で天国に行けるようになるかもしれない」という希望的観測が生まれた時に、「では、努力して自分の運命を変えよう」という気運が生じて、それがアメリカ初の自己啓発本たるベンジャミン・フランクリン(編集部注/「アメリカ合衆国建国の父」の1人)の『フランクリン自伝』(The Autobiography of Benjamin Franklin,1771-90)の登場を促したのであった。

 アメリカにおけるこのような自己啓発思想/自己啓発本誕生の経緯を踏まえれば、日本でもこれとよく似た状況があったことが思い起こされるだろう。そう、例の「士農工商制度」である。

 江戸時代の日本には「士農工商」という身分制度があった。