「印象派というのは聞いたことがあるけれどよくわからない」……そんなあなたにおすすめなのが、書籍『めちゃくちゃわかるよ!印象派』。本書は、西洋絵画の巨匠とその名作を紹介するYouTubeチャンネル『山田五郎 オトナの教養講座』にアップされた動画の中から、印象派とそれに連なる画家たちを紹介した回をまとめたもの。YouTube動画と同様に、山田五郎さんと見習いアシスタントとの面白い掛け合い形式で構成されています。楽しみながら、個々の画家の芸術と人生だけでなく、印象派が西洋絵画史の中で果たした役割まで知っていただけます。
前回に引き続き、「農民だけを描きたかったわけじゃない農民画家ミレー」をお届けします。伝統的な歴史画と写実的な農民画の折衷案が新大陸アメリカや日本で高く評価され、絶大な人気を誇るに至ったミレーのその後の人生を紹介します。
歴史画家になれそうでなれないジレンマ
山田五郎(以下、五郎) ところが、第二共和制は長くは続かない。すぐに反動が起きて、今度はナポレオン3世の第二帝政がはじまるんです。そうすると、また保守的な方向に揺り戻しが起きる。で、今度は「ミレーの絵はちょっと政治的すぎる」みたいなことを言われはじめるわけ。だけど、ミレーはもともと歴史画がやりたかったから、むしろ願ったり叶ったりで、そのときに描いたのがこれ。
五郎 『刈り入れ人たちの休息(ルツとボアズ)』という題名からもわかるように、冒頭で紹介した旧約聖書のルツ記の物語をより直接的に描いた作品。左端で落ち穂を持っているのがルツ。その右の男が、ルツに感心してのちに結婚するボアズという地主。みんなに、彼女をもっと助けてやってくれよと頼んでる場面だね。
アシスタント(以下、アシ) 聖書がテーマだし、完全な歴史画ですね。
五郎 ところが、ミレーが歴史画路線に行っちゃうと、農民画家としてのミレーを支持してた人はおもしろくない。それで、板ばさみになってしまう。困った、どうしようということで、両者のあいだをとって描いたのが、最初に出てきた『落ち穂拾い』なんです。
アシ なるほど!
五郎 ここから、聖書そのままじゃなくて、いまのフランスの農民の暮らしも入れつつ、リアルに描きましょう、みたいな作風が定着する。ミレーってよく、農民の暮らしをリアルに描いた写実主義の画家と言われるんだけど、実はそうじゃないんだよね。だから、当時から農民を美化しすぎじゃないかという批判もあった。でも、やっぱり『落ち穂拾い』は一般の人たちには人気があったんです。だって、フランスって実は農業国じゃん。この作品は、いわば国民的な琴線に触れたわけ。
1000フランで売った『晩鐘』が80万フランに!
五郎 ところで、フランスより広大な農地をもった農業国というと、どこが思い浮かぶ?
アシ え???
五郎 アメリカだよ。1776年にイギリスから独立して、まだ100年もたってない若い国。そのアメリカ人が、文化先進国のフランスに絵を買いにくるんだけど、都会の流行風俗を描いた絵はピンとこなくても、農民画なら理解できる。自分たちがそうだから。だから、ミレーはアメリカで非常に人気が出たんです。
アシ へえ!
五郎 ミレーは本当は『刈り入れ』路線に行きたいんだけど、アメリカ人にも『落ち穂拾い』路線のほうが人気があった。それで、そのアメリカ人の注文で描いたのが、この作品です。
五郎 ミレーといえば『落ち穂拾い』に『晩鐘』と並び称されるほどの作品ですね。どちらも、ミレーが40代の絶頂期に描いています。この絵を見てどう? 何か感じない?
アシ なんか、悲しそうですね。
五郎 悲しそうに見える? 奥に見える教会の鐘が鳴って、今日の仕事は終わりですよってことで、「今日もよく働いたね」と夫婦が夕方の祈りを捧げ「じゃあ、帰ろうか」という場面だから、本来、悲しい絵じゃないんだよ。
アシ そう聞くと、たしかにそうですね。
五郎 ところが、これを見て、悲しかったり怖かったりする人がけっこう多いんですよ。この絵を怖がったことで有名なのが、あのサルバドール・ダリ。ダリはこの絵の複製が飾ってあるのを子どものときに見て、怖くて仕方がなかったらしい。足元にあるカゴ、たぶんお弁当かなにかを入れるものだと思うんだけど、ダリは、ここにはもとは子どもの死体が描かれていたはずだと信じてた。
アシ 私もそう思いました! なんか埋まってるのかなって。
五郎 じゃあ、ダリといっしょだ! ダリは「この下に死体が描かれてる。絵の具を一層、はいでみろ」とまで言ったとか。ダリはこれがトラウマになって、『晩鐘』を題材にした作品をたくさん描いてる。著作権の問題で掲載できないから、ネットで「ダリ 晩鐘」で検索してみてよ。たくさん出てくるから。
アシ 人の心をざわつかせる何かがあるんですね。
五郎 そのせいか、この絵を注文したアメリカ人は、完成する前に帰国しちゃって、取りに来なかったんだよ。そこで、ミレーは別のフランス人に売った。1860年に1000フランで売ったんだよ。ところが、そこからさらに何人かの手を経て、1872年にある画商が売ったときには、3万8000フランになっていた。
アシ へえ!
五郎 さらにミレーが亡くなったあとの1889年にこの作品がオークションにかかったときには、フランス政府とアメリカ美術協会が競り合って、どんどん値段があがり、最終的にフランス政府が55万3000フランで落札した。
アシ 55万フランということは、なんと、550倍!
五郎 フランスの文化省が落札したんだけど、議会がそんな予算とれねえってつっぱねて、一回アメリカに渡っちゃう。そこでフランスのデパート王みたいな人が「フランスの至宝をアメリカに渡すなんていかん」ということで、1890年に80万フランで買い戻した。おかげでいま、『晩鐘』はフランスのオルセー美術館にあるわけです。だから、1000フランで売った作品が、30年で800倍になった。
アシ ひええ!
なりたい自分より、人に望まれる自分に
五郎 結局ミレーは、こういう農民画が評価されて出世していくんです。レジオン・ドヌール勲章ももらい、サロンにも入選どころか自分が審査員になった。晩年にはパリにあるパンテオンの壁画を頼まれたりもしています。
アシ お金のためにヌードを描いてた時代とは大違いですね。
五郎 ただ、念願だった歴史画の大作となる壁画に取りかかろうとした矢先に体調を崩し、1875年にバルビゾンで亡くなってしまうんです。代わってパンテオンの壁画を完成させたのは、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌという人です。
アシ 最期はちょっとあっけないですね。
五郎 ミレーは、画家としては頂点まで行くんだけど、本当は歴史画で評価されたかったという思いがずっとあった。でも、「ミレーといえば農民画家」という世間の評価は最後までくつがえせなかった。しかも、ミレーが亡くなったあとに、彼は農民につねに寄り添って苦しみをともにした画家だとする伝記まで出ちゃうわけ。ゴッホはそれを読んで感激して、「俺もミレーみたいになりたい」ってなったんだよね。
アシ なんだか、かわいい(笑)。
五郎 そういうミレー像が日本にもすごく影響を与えて、白樺派の人たちの中には、「新しき村」という村落共同体をつくって自給自足の田舎暮らしをはじめた武者小路実篤みたいな人もいた。
アシ へええ。
五郎 そんなわけで、このミレーの『落ち穂拾い』からは、「困っている人がいたら助けなきゃいけないよ」という聖書の教えだけじゃなく、もう1つ別の教訓も読み取れるよね。それは「人は、自分が望んだ評価を得られるわけじゃない、えてして違うところで評価される」ってこと。まあ、それもよし、としないとね。
アシ よし、なんですね。
五郎 だって、しょうがないじゃない(笑)。俺もずっとそうだったよ。別にほめてもらいたくないところばかりほめられて、ほめてほしいところはほめられない。
アシ 五郎さんでもそうなんですね。
五郎 そんなもんだよ。だから、腐らずにがんばろうってことだよ。評価してくれる人がいるだけでも、ありがたいじゃないかと。もしかしたら、自分のほうが間違ってて、やっぱり世の中の人が望んでくれることをやったほうがいいんじゃないかと。
アシ そうすれば、30年で値段が800倍にもなる!
五郎 ただ、ミレー自身が手にしたのは、最初に売ったときの1000フランだけなんだけどね(笑)。
アシ ああ……。
五郎 ミレーたちバルビゾン派は、歴史画ではなく同時代の出来事や風景、それもロマン主義絵画のようにドラマチックな事件やスペクタクルな光景ではなく、ありふれた農民の暮らしや農村風景を描きました。ちょっと美化しすぎではあったけど、この方向性は同時代の人々の日常をありのままに描く写実主義の最初の一歩として、印象派にも受け継がれていくわけです。
アシ なるほど。
五郎 もう1つ、戸外の光で描いた点でも、印象派に先駆けていたんです。チューブ入り絵の具が発明される前まで、油絵はアトリエで仕上げるのが普通だったという話は冒頭にしたよね。実はミレーもそうしていたみたいだけど、バルビゾン派の仲間の中には戸外で仕上げる画家も出てきていた。印象派がより明るい色彩を求めて筆触分割という技法を使うようになったのも、彼らのように戸外の明るい光の下で油絵を描くようになったからなんだよ。