政教分離の国でも独裁に陥る可能性はあるが、政教一致の場合は、むしろ独裁によってしか機能しない仕組みになっているといってよい。さらに恐ろしいのは、独裁者となった最高指導者への異議申し立ては、「正しいイスラム」に反旗をひるがえすことに等しいので、これに対する弾圧が神の名によって正当化され、熾烈をきわめることだ。
独裁者が神を後ろ盾に権力をほしいままにする一方、国民は「神の敵」となる恐怖心から政策決定への絶対服従を強いられる──。イラン人が、イスラム体制を「最悪の独裁」と呼ぶ理由はここにある。
政治と宗教が一体化すると、宗教が弱体化する
政教一致の二つ目の弊害、それは「宗教の弱体化」である。政治と宗教が一体化すると、宗教はむしろ隆盛を極めるように思われるが、実際はその逆だ。
たとえば、今ここにハメネイの政策に反発する者がいたとしよう。すでに述べたように、それが純粋に政治的な理由であっても、彼の主張は神の名によって圧殺される。これが何度も繰り返されるうちに、「自分を受け入れてくれないこの神、この宗教(イスラム)とは、いったい何なのだ?」と感じる人たちが、徐々に増えてくる。つまり、政治に対する不信感が、宗教にも向き始めてしまうのだ。
それでも、結果として国が発展し、国民が豊かな暮らしを送れているうちは問題ない。しかし、そうでない場合には、宗教にとって恐るべき悪夢が待ち受けている。そのとき国民は思うだろう。「イスラムを掲げているのに、ちっとも国がよくならない。これはきっとイスラムそのものに問題があるからだ」と。
つまり、政教一致の国では、政治と一心同体である宗教も常に毀誉褒貶にさらされるため、政治が信用を失えば、宗教の権威も失墜してしまうのだ。
政教一致による、「政治の独裁化」と「宗教の弱体化」。皮肉なことに、そのどちらも現在のイランでは現実のものとなっている。