確かにこうした批判は一定の説得力を持つかもしれません。しかし、抑圧された人間集団に言論の自由などを要求することに何の意味があるのかとも考えてしまいます。様々な批判があるとしても「パレスチナ人がここまで苛烈な運命を背負わなければならないのか」という大きな疑問はやはり残ります。

 一方的に土地を奪われ、爆弾と砲弾で家を破壊され、街を破壊され、家族を殺されなければならないのか、イスラエルの行為をそこまで許容するのか。そんな“再反論”も当然大きな説得力を持つわけです。

 パレスチナ人たちは、ユダヤ人という組織力が強く、かつ強い生存本能を持った民族が「住みたい」と言った場所に、偶然、住んでいただけです。ただそれだけで、苛烈な運命を背負わされているのです。

 ユダヤ人はかつて歴史的に迫害を受け続ける「弱者」とされてきましたが、今や、経済的・軍事的な「強者」になっています。つまり対立の根源は、強力な軍事力と経済力を持つイスラエルの「強者の論理」と、ゲリラ戦やテロ攻撃で報復するしかないパレスチナ人の「弱者の論理」の対立でもあるのです。

 確かに国際政治は「強者の論理」が支配する世界ですが、現代に生きる私たちが、それをただ肯定することはできません。日本としても当然すべきではないでしょう。これは綺麗事ではなく、もし日本より軍事力の大きな国が武力で日本の領土を奪った場合、それを認めることはできませんし、認めるべきではないからです。現代の国際秩序が壊れてしまうからです。

 もし日本人がパレスチナ人のような状況に置かれたらどうするでしょうか。宗教に救いを求めずにいられるでしょうか。家族や子供を殺されて冷静でいられるでしょうか。

 この問いに答えはありませんが、パレスチナの人々は多くが石を投げて抵抗し、イスラムの教えを拠り所にしました。

 そして、イスラエル人たちがいるショッピングセンターで自爆ベルトを起爆させて散るようになりました。民間人に対する非道な攻撃、自爆テロをも行う人々が現れたのです。過激な手段をとる武装集団=ハマスの登場です。