「人生を一変させる劇薬」とも言われるアドラー心理学を分かりやすく解説し、ついに国内300万部を突破した『嫌われる勇気』。「目的論」「課題の分離」「トラウマの否定」「承認欲求の否定」などの教えは、多くの読者に衝撃を与え、対人関係や人生観に大きな影響を及ぼしています。
本連載では、『嫌われる勇気』の著者である岸見一郎氏と古賀史健氏が、読者の皆様から寄せられたさまざまな「人生の悩み」にアドラー心理学流に回答していきます。
今回は、「人が存在することの価値」についての深いご相談。「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と喝破するアドラー心理学を踏まえ、岸見氏と古賀氏が熱く優しく回答します。

人は生きているだけで価値があるPhoto: Adobe Stock

人は存在しているだけで価値があるのか?

【質問】自分は存在しているだけでも価値がある、素晴らしい存在であると考えられるでしょうか? もし「イエス」であれはその根拠を教えて欲しいです。(50代・男性)

岸見一郎:私は十数年前に心筋梗塞という病気で倒れました。当時、いくつかの学校で講師などをしていたのですが、それらもすぐに解雇されました。常勤であればしばらく休んで復帰できたのでしょうが、非常勤講師という立場だったため仕事を失ったのです。それからはベッドで寝たきりでした。体の向きも自分では勝手に動かせない状態で本当に絶望してしまい、自分には生きている価値があるのだろうかと悶々と考え続けたのです。

 そして、3日目くらいにこんなことを思いました。「もし病院に担ぎ込まれたのが自分ではなく、親しい友人や家族だったら自分はどうしただろう」と。答えは、取るものもとりあえず病院に駆けつけただろうというものでした。たとえ重体で意識がなくても、とにかく生きていてくれて良かったと思うはずだと。

 同じことを自分に当てはめて考えてもいいのだと思いました。私は幸いにも生還できましたが、それを喜んでくれる人がいるはずだと。つまり、自分はこうして生きているだけでも誰かに貢献している、役に立っているのだということに思い至ったのです。

 ですからこの質問に対する答えは「イエス」です。人は生きているだけで価値があるのです。

 自分の子どもや孫のことを考えれば分かると思います。特別な条件をつけなくても、子や孫はそこにいてくれるだけで嬉しいでしょう? その気持ちを思い出してほしい。たとえ仕事をしていなくても、病気で体が動かなくても、こうして生きているだけで周りの人に貢献できている、ぜひそのように考えてみてください。

古賀史健:僕がよく思うのは、たとえば著名な方の訃報が届いたとき、特にファンだったわけじゃなくても、その人を最後にテレビで見たのが10年ぐらい前だったとしても、なんとなく心に小さな穴が開いた気がするということです。誰かの訃報に触れて心に小さな穴が開くということは、その人は僕の心の一部だったと思うんです。開いた穴は、時間とともに埋まっていくけれど、開いたという事実は変わらないですよね。

 だから、僕たちも家族や友人や仕事仲間などいろいろな人の心の一部であるはずなんです。自分が欠けてしまえば、その人たちの心に小さな穴を開けてしまう。

 存在することの価値とは、仕事を通して世の中の役に立つといったことだけじゃないはずです。誰かが僕の顔を知り、僕の名前を知り、僕の存在を認知してくれた時点で、その人の心の中に僕というピースができる、そのこと自体に価値があるのではないでしょうか。

岸見一郎:いま古賀さんが語られたことは、アドラー心理学が説く「共同体感覚」の意味です。アドラーが言う共同体感覚にはいくつかの表現がありますが、その一つがドイツ語の「ミットメンシュリッヒカイト(Mitmenschlichkeit)」です。これは「人と人」(Menschen)が「結びついている」(mit)ことを意味します。我々は多かれ少なかれ誰かと結びついている。だからあまりよく知らない人も自分の一部であり、その人が亡くなったことを知れば、自分の中に空白ができるわけです。

 アドラーはまた、人は誰かの役に立てているという「貢献感」が持てたときに自分に価値があると思える、と言っています。だからこそ、生きていること自体がそのまま他者に貢献しているのだと考えたい。

 もちろん元気でバリバリ仕事ができる人は行動のレベルで貢献すればよいでしょう。ですが、世の中にはいろいろな人がいます。いまの時代は生産性に価値を置きすぎる面があると思いますが、高齢者や病気がちな人は生産性のレベルでは貢献が難しいかもしれません。

 では、そういう人は貢献できないのかと言えば、そうではありません。生きていること自体で他者に貢献できているのです。自分が生きていることに価値があると思えれば、周りの人を見る目も寛容になり、優しくできるはずです。たとえ子どもが勉強しなくても、学校に行かなくても、親の理想と違っていても、とにかく生きていてくれて良かった、そう思って日々を暮らす。そんなことができたらいいなと思っています。