秀吉の聚楽第と本能寺跡も
室町時代には、天皇の居所はずっと東、今の京都御所に移動していました。応仁の乱で荒廃した都を、新たな都市計画で復興したのが豊臣秀吉で、京の邸宅として、平安京跡に築いたのが聚楽第でした。東西600m、南北700m、周囲に巡らされた堀は幅30mを超す大規模なものであったと推定されています。
この聚楽第、どこにあったのかはっきり分かりません。おいの秀次に譲ったものの、謀反の疑いで秀次を自害に追いやった後、聚楽第も徹底的に破却してしまったためです。その土地の記憶を垣間見られるのが、二条城北、智恵光院通に程近い松林寺(上京区)です。山門をくぐると、いきなり下り階段が。道路よりも一段低いところに境内を構える妙な造り。実は、この落ち込んでいる部分こそが聚楽第の南外堀跡なのだとか。現地で実際に確認してみてください。
本能寺(中京区)というと、京都市役所と御池通を挟んだ向かい側の大きな境内が印象的ですが、かつては二条城から堀川通を南に徒歩10分くらいのところにありました。京都で有数の公立進学校となった市立堀川高校の近く、介護施設の一角に「本能寺跡」の石碑が立ちます。当時の本能寺は、周りを高い塀と深い堀で囲まれた要塞のような造りだったそうです。1582(天正10)年に、明智光秀が主君である織田信長を討った本能寺の変の舞台、往事の姿を想像してみてください。