あなたの望む「幸せ」がもし「歪んだ幸せ」なら、他者をとんでもない不幸に陥れるかもしれない。人はなぜ「歪んだ幸せ」にとらわれるのか。少年院で矯正教育に携わった著者が、ある放火事件で起きた悲劇をもとに解説する。本稿は、宮口幸治『歪んだ幸せを求める人たち:ケーキの切れない非行少年たち3』(新潮社)の一部を抜粋・編集したものです。
少年院で非行少年たちと考えた
教材で取り上げられた「歪み」の事例
私は長年少年院で勤務してきました。少年院の矯正教育の一環として、非行少年たちに被害者の手記を元に作られた教材を読ませるという取り組みがあります。
教材は非行別にまとめられています。例えば、窃盗、暴力、性犯罪、放火、殺人といった形で、それぞれ被害に遭った方々の話が書かれています。そうした教材の中に、まさにこの記事のテーマを描いていると感じさせられるものがありました。それは以下のような内容でした。
夜中に、ある若い男性は同居する母親に起こされました。
「おばさんの家が火事だって!早く来て!」
近くに住む叔母の家が放火によって火事になったのです。その男性は、母親と急いで叔母の家に向かいました。まだそこまで火の手が上がっていなかったので、男性は勇敢にも1人で叔母の家に入っていき、何とか叔母を救出することができました。その後、火の勢いが増したので、母親も安堵して叔母を抱きしめました。
ところがその時です。風呂場の窓から叔母の愛犬が顔を出しました。
「ワンワン!」
と助けを求めています。それを見た叔母は、
「私のワンちゃんが!早く助けに行って!」
とそばにいた男性、つまり甥っ子に叫んだのです。