そのために採用されたのが、人間の排泄物を肥料として田畑に戻すという循環システムでした。
もともと、関東平野は関東ローム層という富士山の火山灰や風塵に覆われた不毛の地でした。そのままではとても100万人の人間を養うほどの収穫は望めません。その不毛な大地を豊かな農地に変えるために最も重要な有機質肥料だったのが、人間の排泄物でした。
当時人間の排泄物は金銭を払って買われていました。一番高かったのは加賀藩の上屋敷のもので、要するに一番良いものを食べていたということです。実際にその肥料を使う農民たちはどこの肥料が一番効くかをわかっていて、それに応じて買い取り価格がつけられていました。それほど廃棄物そのものが重要な資源として認識されていた社会だったのです。
汚すぎて人が死ぬセーヌ川
その頃の隅田川では……
そもそも、ゴミへの認識も現在とは異なっていました。江戸時代の世帯あたりのゴミの量を人口から算出すると、1日のゴミの量(長屋に住む1世帯当たり)は、手の爪半分程度の量であったとされています。現代の家庭から出るゴミと比べると、その少なさに驚きます。