打率、防御率は21世紀の今も、日米のプロ野球選手が最も重要視する記録の1つだ。こうした指標が150年以上前の、野球の原初の時期に考案されたことに驚きを禁じ得ない。
その後、チャドウィックはジャーナリストの傍ら公式記録員として様々な試合の記録を作成し、集計した。
当時は、野球のルールそのものも年々大きく変動していた。ストライク/ボールの判定が完成したのは1863年、この時期の投手は下手投げで打者が打ちやすい球を投げていたが、1872年には手首を利かせたスナップスローが認められ、「投手」が他の野手から独立する。
さらにこの年、9ボールで一塁に進むことが決められる。1880年にはそれが8ボール、82年に7ボール、84年に6ボールとなる。また、この年から投手のオーバースローが認められる。87年に5ボール、そして89年に現在同様、4ボールで一塁へ進塁することとなる。そして1893年には投手板と本塁の距離が今と同じ60フィート6インチ(18.44m)になった。