1929年までに激変した品川区
農村風景に3路線がお目見え
さて戦前の東京で、この高度成長期よりも激動した時期がある地域の存在を知ったのはだいぶ後になってからだが、日本初の国勢調査が行われた大正9(1920)年から昭和5(1930)年までの10年間で人口が15.5倍に増えた東京府荏原郡荏原町(旧平塚村。現東京都品川区)はその最たるものであった。
ちょうどこの2つの時代に近い新旧図を比べてみよう。大正8(1919)年の図では畑と田んぼの合間に集落が点在する農村風景だったのに対して、10年後の昭和4(1929)年の図には目黒蒲田電鉄(現・東急目黒線)と池上電気鉄道(現・東急池上線)、それに品鶴貨物線(東海道貨物線)と、大正末から昭和初めにかけて相次いで建設された線路が一挙にお目見えしている。
この間に起きた関東大震災で「郊外志向」が強まったこともあるが、それ以前に日本の急速な商工業の発展により東京への人口集中はすでに進んでおり、3路線の急な出現は偶然ではない。
両社の路線は競うようにこの界隈に駅を設け、利便性は一気に高まった。このため市街化のテンポはどこよりも急速だったのである。品鶴線の建設も、当時の旅客・貨物輸送量の大幅な伸びを反映したものだ。