そのわかりやすい例がコロナ禍の「マスク警察」だ。
欧米諸国ではマスクを個人の自由を制約するものとして忌み嫌われるケースが多かったが、日本では逆でマスクは、「人命重視と社会の連帯の象徴」として美化された。だから、マスクをしていない人は「人命軽視」「身勝手」のそしりを受け、時には知らない人から「みんなに迷惑をかけるな!」と罵られ、「この人殺しめ!」と路上でいきなり殴られたりした。
この「マスク警察」と似ていることは、実は日本の近代史の中でちょくちょく起きている。本質的なところでは「みんなのために自分を殺さない人」への取り締まり・制裁である。
みんな心の底ではマスクなんかしたかねえよと思っているが、感染爆発・医療崩壊を避けるという大義のためにその気持ちをグッと抑え込む。つまり、「みんなのために自分を殺している」という状態だ。
当たり前だが、自分を殺せばストレスはたまる。そんな時、自分がイヤイヤやっているマスクをしない人間を見たら「オレはガマンしているのに、なんでお前はガマンしないんだ!」と怒りが爆発するのは、人として当然ではないか。
多くの専門家やメディアはこの現象を「同調圧力」と説明したが、実はすべての日本人が通過する学校教育のたまものだった可能性が高いのだ。
さて、ここまで言えば、筆者が何を言わんとしているのかお分かりだろう。
日本人は「みんなのために自分を殺す」という精神を尊ぶ傾向がある。誤解を恐れず言えば、この精神に「縛られている」と言ってもいい。実際、これまでの歴史を振り返っても、社会や公のために進んで命を投げ出すような「自己犠牲」「滅私奉公」を美徳としてきた動かし難い事実がある。
そんな日本社会で、電動キックボードのシェアリングサービスでの危険運転や、スポットワークを悪用した闇バイトなどが問題になった。「監視を強化」「厳しいペナルティで臨む」などの付け焼き刃的な対症療法では当然、「みんなのために自分を殺す」の精神を尊ぶ日本人からすれば、「生ぬるい」と感じるはずだ。
だから、とにかく「自分を殺す」という姿勢を強調する。
危険運転や闇バイトという「みんな」に迷惑をかける問題を解決するためには、企業にとってマイナスになることや、身を切るような改革もどんどんやっていきますというスタンスをしっかりと、社会に向けてアピールをするのだ。
もちろん、そのためには問題が指摘されるサービスや技術の根本的な見直しも辞さない。
多くの日本人は、企業側のそういう「自分を殺す」という決意を見てはじめて、「ああ、この企業は日本社会のために、本気でこの問題に取り組むのだな」と感じるものなのだ。