たとえば、薬物防止キャンペーン用の〈ダメ。絶対〉〈クスリやめますか?それとも人間やめますか?〉などの標語は、多くの人に「薬物=犯罪」っていう印象だけを与えて、薬物依存という「病気」の側面を切り落としてしまう。そもそもそれらの文句は、依存症の人間にとってはなんの効果もないばかりか、かえって逆効果なんだって、あたしたちはわかってもいる。

 また、薬物やアルコール依存の治療を行う専門家はいないことはないけれど、患者を受け入れる病院は、全国でも数えるほどしかない。それ以外の病院では、治療じたいが拒否されることが多いんだ。

 ごくまれ〜に、理解あるお医者さんに出会えれば、「治療しましょうね」とか言ってもらえるけど、ほとんどの医者からは、「覚せい剤?犯罪だから早く自首しなさい」とか、「やめようと思えばやめられるんじゃないの?」「意志が弱いだけなんじゃないの。あなた、こどももいるんでしょ?」なんて言われてしまうのが、お決まりのパターンだ。

 こころもからだもボロボロで、仕事をすることがむずかしくて、重いからだを引きずりながら、なんとか生活保護を申請しようと役所に行けば、「酒やクスリやってなまけてきたんでしょう、人間として恥ずかしくないんですか?」、「気持ちしだいでしょ。すぐ働きなさいよ」とくる。

「依存症の治療はあなたの権利です。まずは治療が先決です」と言われて生活保護が下りるなんて、まずめずらしいことだ。

〈人権〉は
遠いかなたにある気がする

 そんないっぽうで、ハウスにちょくちょく来てくれて、ミーティングに参加したり、いろいろと手伝ってくれる刑事法の研究者の話を聞いていると、自分たちが全部悪いわけではないのかも、あたしたちもじつは被害者なのかも、そして自分たちにも、最低限の〈人権(仮)〉みたいなものがあるのかも、と思えてくるときもある。でも、少し時間がたつと、そんな気持ちや淡い期待は、すぐに薄れてきてしまう。

 ようするに、あたしたちには、自分が大事にされたり、自分を大事にすることへの根深いなじめなさのようなものがある。だから、世の中と自分へのうしろめさのようなものをつねに抱えてしまい、結果、「権利」なんてとてもじゃないけど主張できるわけないじゃん⋯⋯って思ってしまう、ってことなんだ。