中に残っているアジア人は、隆嗣と数人の日本人留学生、大学本科で英文を学んでいることから特別に参加を許された中国人学生たち、それに、お目付け役として二人の留学生担当教員がいるだけだ。

 今日ばかりは些少のことには目をつぶることにしているらしく、教員たちは食堂の片隅でちびりちびりとクリスマスには場違いのバイチュウ(白酒)を口に運んでいる。やがてラジオカセットから耳に馴染みのあるユーロビートが流れてくると、隆嗣は眉をひそめてしまった。

 1985年のプラザ合意を引き金にして国内に充満した過剰資金が決壊して溢れ出し、この1987年頃からバブル景気と尊称される祭り囃子に日本中が踊り始めていた。

 九州の片田舎から出て東京の私立大学に通っていた隆嗣は、その変貌を目の当たりにした。自分とは縁遠い世界であったが、BMWに乗って大学へ通ってくる同級生などを見るようになると、隆嗣は羨望よりも奇妙な違和感を感じ始めた。

 そして、そんな友人たちに誘われるまま幾度か足を踏み入れたディスコで流れていたのがユーロビート。やはり自分の肌には合わないと思っていた時に目に入ったのが、大学の掲示板に貼られていた『日中交流・交換留学生募集』という文字だった。

 トウ小平が掲げる経済開放政策が第一歩を踏み出した時期で、江戸末期に鎖国を解いた日本と同じ様なものである。どう付き合っていけばよいのかと、日本人はその対応に困惑していた。

 バブル景気は、思わぬ恩恵を隆嗣にも与えてくれていた。好況が産みだした時給の高いアルバイトを掛け持ちして精を出したお蔭で、仕送り以外にもかなりの収入があったので、大学4年次の夏までには100万円以上の蓄えをしていた。それを手に、隆嗣は中国の新学期に合わせて、この年の9月に語学留学生として上海へやって来た。

 学費は年間でも20万円程度と安く、生活費に至っては、外へ出ずに学内だけで過ごすならば、寮費込みでも月に2万円あればお釣りがくる。やって来た当初、隆嗣はその金銭感覚の格差に戸惑っていたが、日本以外の世界に棲んでいるのだと、最近になってようやく慣れてきたところだった。

「あなたも居心地が悪そうね」

 いきなり中国語で問い掛けられ、隆嗣は現実に引き戻された。真っ赤なセーターを着た女性が、正面からこちらを見詰めている。その真紅の刺激に、目が焦点を取り戻すまで時間が掛かった。