そんな多くの町のひとつが、気仙沼市(宮城)である。

 気仙沼は一時は人口が8万人を数え、その8割が水産加工業に従事する港町である。震災時は、津波の被害のみならず、なぎ倒された石油タンクによって大火災が生じた。多くの命と、人々が暮らしを営む家屋と、生業である漁業がいっぺんに失われた。

いまアイスランドに学ぶべき理由は何か?まるで農地のように見える住宅地跡(Alessandro Biamonti撮影)

 春、夏、秋、冬、と季節が変わり、訪れるたびに気仙沼の様子は少しずつ変化していく。道路は少しずつ整備され、その脇には電線が通る。がれきが片付けられ、きれいになり、地面が雪で覆われると、住宅の跡地はまるで区画された農地のようにも見えた。

 このまま行けば順調に復興するのか−−−そう考えた矢先のことだ。

 2011年11月。気仙沼の市街地から車で30分ほど行った唐桑町の港で、残された数少ない漁船が鮭漁から帰ってきた。穫れた大量の鮭でずっしり重そうな船が海岸に着くのを見守りながら、水揚げを待つ女性たちが語ったのは、想像を絶する復興の難しさだ。

 震災前でも、気仙沼の漁師の年収は300万円。平均年齢は60歳。苦しく難しくなるばかりの漁業を継ぐことは、親も子供も希望しない。そこへ震災の被害まで加わった。万一、住処と漁船が戻って来ても、この先に漁業でやっていけるのか。「元に戻す」−−−それだけでは、「復興」という言葉が指し示す明るい未来にはほど遠いのが現実だ。

 震災の復興は緊急性の高いものから、既に新しいフェーズへと移行している。これから先10年を見据えた際、被災地のみならず、日本はどういう社会を目指すのか。今10歳の子供も10年後には20歳だ。彼らが自分たちの将来に対して希望を持ち、被災地で生まれ育ったことがハンデではなく強みとなって社会に出て行くためにはどうすれば良いのか。

 アイスランドのオラフル・ラグナル・グリムソン大統領は、過去のインタビューで何度か次のように発言している。

「小さい国だからできることがある。アイスランドは大きな国のモデルにはなり得ないが、大きな国の中にあるより小さな地域のモデルになることはできるかもしれない」

 アイスランドは自ら世界の実験場として、名乗りを上げているのである。私たちは、そこから積極的に学んで行きたい。

 本連載では、政治や教育、地域産業など、日本とアイスランドの今に共通したテーマを元に、断絶が社会に及ぼす影響やその意味について考えていく。次回以降は、アイスランドの断絶の歴史を振り返った後、実際に倒産した起業家や、市民運動を展開する女性、アイスランドにおける教育事情など、「断絶」の実情と再生への動きを紹介する。そして最後に、再び日本のなかでも気仙沼に視点を戻し、今後の復興に向けた取り組みについて、私なりの提言をまとめたい。