哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第7章のダイジェスト版を公開します。


 本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。

 物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?

哲学史を学ぶ! 「原子論VSイデア論」

原子論VSイデア論

前回記事『ソクラテス『善い行いをしろと言ったら、嫌われて死刑になった』』の続きです。

「そして、それから時が過ぎ去り、次の対立、原子論とイデア論の対立が始まる。原子論とは、『モノはどんどん分割していくと、原子というそれ以上分割できない小さな粒になり、すべてのモノはその粒からできている』という考え方のことである」

「この原子論は、現代で言うところの唯物論であると言える。つまり、世界は物質の集まりでできていて、それ以上でもそれ以下でもないという考え方。もちろん、この考え方に従うなら、善や正義は、本質的に存在しないということになるだろう」

「たとえば、オモチャのブロック、もしくは、歯車で動く人形を思い浮かべてみてほしい。その人形は、ただの物質の集まりにすぎず、物理法則通りに機械的に動いているだけなのだから、その行動に『善悪』という概念を当てはめることはできない」

「なぜなら、物理法則に『善い』も『悪い』もないからだ。たとえば、リンゴが重力に引かれて落ちることについて、『それは善いことだ』『いや悪いことだ』などと議論する人はいないだろう。だから、『塩が水に溶けるのは善いことであり正義だ』などとは言えないように、人間も含めて世界のすべてが、物理法則通りに動く粒の集まり、機械的な装置であるなら、そもそも『善悪』『正義』という概念は成立しえないのである」

「ちなみに、この原子論、時代的には、さっきの相対主義とさほど変わらない。顕微鏡もなく、化学的な知識もない時代に、唯物論的な世界観をすでに生み出していることは真に驚嘆すべきことだと言えるだろう」

 本当にそう思う。僕がその時代に生まれていたとして、同じことを思いつけただろうか。世界なんて人間なんて、機械的に動くただの粒の集まりだ、という身も蓋もない考え方。相対主義もそうだけど、古代の昔に、ここまで冷徹に物事を見ている人たちがいたというのは本当にびっくりする話だと思う。

「一方、それと対立したのが、ソクラテスの弟子プラトンが考えたイデア論だ。イデアとは、アイデア、つまり概念のことであるのだが―このイデア論を、ざっくりと言うと『善や正義などの概念(イデア)は、物質を超えた世界に、本当に存在している』という考え方のことだと言える」

 物質を超えた世界……?
 僕の頭の中は、一瞬はてなで埋め尽くされたが、さっき先生が黒板に書いていた枠の外の話を思い出して疑問が解消する。

 ようするに、この世ではない、モノや理屈の枠を超えた世界があって、そのどこかに「善」
とか「正義」が本当にあるんだよ、という主張なんだろうな。

 うーん……。でも、それってどうなんだろう……。