「自己を啓発する」ことの意味

糸井 おふたりの書いた2冊ともそうだと思うんですけど、「ビジネス書」ってジャンルがあるじゃないですか。

古賀 はい。

糸井 ぼくは以前これがよくわからなくて、「ビジネス書は会社員が読むものなのかな」と思っていました。「こういうのを発明したえらいやつがいるぞ」とか「この会社がすごいぞ」って本が並んでるんだろうって。

 でも、おふたりの本は「ビジネス書」として出版されているけれど、「仕事の本」ってわけじゃないでしょう。ぼくは、ビジネス書ってジャンル分けが消えつつある気がするんです。それこそ、『嫌われる勇気』のあたりから。

 で、かわりに、悪口半分で「自己啓発」のジャンルが出てきた。田中さんの本も自己啓発に入れようと思ったら入れられますよね。「いまの自分よりもっとよくなれる」ってことで。

田中 そうですね。

糸井 このジャンルについて、人々は「なめてた」と思うんです。大学で学ぶような学問分類に、「自己啓発」はありませんから。

 でも、それこそソクラテスの話って学問でいえば「哲学」のジャンルに入るけど、言ってることは「自己啓発」でしょう。そういう目で見てみると、マーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』だって自己啓発で。

古賀 うん、よくわかります。

糸井 いま、自己啓発の見直しが問われている気がしています。ぼく自身、「ほぼ日の學校」をもっとおもしろくしようとしているんですが、自己啓発ってことばを嫌がらずに、むしろ積極的に取り入れたくなってるんですよ。

 たとえば、長年お煎餅を焼きつづけている人の話を聞くこと。これ、学問の分類では「社会学」や「考現学」になるかもしれないけど、要は「直にためになる」わけです。この「直にためになる」、つまり自己啓発ってものが、これからものすごく重要になるんじゃないでしょうか。

古賀 なるほどなあ。

糸井 それでいうと、『嫌われる勇気』は学問の分類に無理にあてはてはめることなく、「いいじゃん、知りたい人に知りたいことがあるなら」ってところを切り拓いた本のひとつですよね。古賀さんは、自己啓発ってことばをどう捉えてます?

古賀 そうですね……。まず自己啓発は、サミュエルズ・スマイルの『自助論』が源流だと言われています。その中にある「self-help」という言葉が明治時代に、「自己啓発」と翻訳されたんですよね。それで、『嫌われる勇気』を出すときいろんなタイトルを考えたんですけど、じつはその中でぼくが強く推していたのが『自己を啓発せよ』で。

糸井田中 へえーーー。

古賀 さっき糸井さんがおっしゃったように、ぼくも昔から「みんな自己啓発って言葉をばかにしすぎている」と感じていました。self-help的な文脈での「自己を啓発する」行為は、ただ知識を仕入れるのではなく、自分の中に「動機」を持ち、学び、それを実践することです。そうやって能動的に学びに行く人だけが、変わることができる。アドラーが言ってることはまさに「自己を啓発せよ」なんです。

糸井 たとえば、矢沢永吉さんの『成りあがり』を読んでる飲食業界の人ってすごく多いそうなんです。調味料の使い方や接客の方法なんて、ひとつも書いてないのに。

 でも、『成りあがり』を読んだことで「そうか!」って思うことがあって、「店を開こう」とか「もっとこうしよう」って考えて行動するわけでしょう。本によって、自己を啓発されて。――ここらへんの部分は、この時代の日本に生きる自分が、いまものすごく掘りたいところですね。