農協の大悪党#5Photo by Hirobumi Senbongi

JAグループ京都を26年以上にわたって牛耳っている中川泰宏が農協の経営に携わる前に得意としていたのは、経営難に陥った企業を整理、売却するビジネスだった。中川は農協の経営再建でもそのノウハウを存分に活用した。だが、リストラや合併は、農協の本業である農業振興の機能を弱体化させてしまった。連載『農協の大悪党 野中広務を倒した男』の#5では、そのことをデータや農家の声から裏付ける。(ダイヤモンド編集部 千本木啓文)

農協リストラで職員6割減
JAの労組潰しで不当労働行為も

 中川泰宏が初めて組合長を務めた京都府の八木町農協は、農業の特産品も、住宅ローンといった金融事業の収益機会も少ない農協だった。だが、中川はその弱小農協を足掛かりにして「国盗り物語」のように周辺の農協をのみ込んでいった。

 府内の農協数は、中川が組合長になる1988年には70以上あった。それが、彼がJA京都中央会会長に就任した95年には38に減少。中川が「府内1農協構想」を掲げて合併を推進した結果、現在は五つまで集約している。

 農協大合併の台風の目になったのが、中川がトップを務めるJA京都(JA京都中央会の下部組織である地域農協で、八木町農協ものその前身の一つ)だった。

 京都の農協が、不良債権や余剰人員を抱えて慢性的な経営不振に陥っていたことは事実だ。中川は、ぬるま湯に漬かっていた農協界において「聖域なき構造改革」を行うリーダーとして登場した。中央政界にとっての小泉純一郎のような“劇薬”だったのだ。

 ある中川の支持者は、「泰宏(京都の人の多くは中川を〈たいこう〉と呼ぶ。正式な読みは〈やすひろ〉)の功績は、京都府の農協合併だ。彼でなければできなかった」と筆者に語った。

 だが、中川による構造改革は農協の組合員である農家や職員のためになったのだろうか。データや公式文書に基づいて実態を見ていこう。