コロナ禍で価値観が大きく変わるなか、就職活動や会社選びも大きく変わってきている。
自分らしい働き方、生き方とはなにか?
今回、国境なき医師団日本の事務局長である村田慎二郎さんと、『絶対内定』の共著者であり、キャリアデザインスクール「我究館」館長の藤本健司さんの対談が実現した。
学生時代から「社会貢献をしたい」という思いを胸に秘めていた村田さんだったが、周りにそのような思いをもつ同志はおらず、なかなか言い出せずにいたという。そんな村田さんが今、夢を描きつつ前に踏み出せない学生に贈る言葉とは?
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(構成/前田浩弥、ダイヤモンド社・朝倉陸矢)

思い描いた「夢」を、他人に潰されないために 国境なき医師団村田慎二郎×『絶対内定』藤本健司対談(3)Photo: Adobe Stock

「やりたいことが周りの人と違う」という悩み

思い描いた「夢」を、他人に潰されないために 国境なき医師団村田慎二郎×『絶対内定』藤本健司対談(3)村田 慎二郎(むらた・しんじろう)
国境なき医師団(MSF)日本事務局長
静岡大学を卒業後、外資系IT企業での営業職を経て、2005年にMSFに参加。現地の医療活動を支える物資輸送や水の確保などを行うロジスティシャンや事務職であるアドミニストレーターとして経験を積む。2012年、派遣国の全プロジェクトを指揮する「活動責任者」に日本人で初めて任命され、援助活動に関する国レベルでの交渉などに従事。以来のべ10年以上を派遣地で過ごし、特にシリア、南スーダン、イエメンなどの紛争地の活動が長い。2019年夏より、紛争地で人道援助が必要な人たちの医療へのアクセスを回復するために医療への攻撃を止めさせるアドボカシー戦略を練るためHarvard Kennedy School(ハーバード・ケネディスクール)に留学。授業料の全額奨学金をJohn F. Kennedy Fellow(ジョン・F・ケネディフェロー)として獲得し、行政学修士(Master in Public Administration =MPA)を取得した。1977年2月27日生まれ。三重県出身。

藤本健司(以下、藤本) この対談の第2回では、村田さんが「自分の道は自分でつくっていきたい」という生き方を見つけたお話がありました。内定どころか、1次面接にすら1社もたどり着けなかった村田さんが「自分の道は自分でつくっていきたい」という力強い思いを持つまでに至った。その源泉はどこにあったのでしょうか。

村田慎二郎(以下、村田) やっぱり、いわゆる「エリートコース」からそもそも外れていたことが大きいんだと思います(笑)。私は大学に入るのに1浪し、それでも第1志望の大学には入れなかった。そして新卒として就職するために「就職留年」として1留しています。

そこから社会人として生きていくには、周りの人と同じようなことが自分の身に巻き起こるのを期待してもダメ。とにかく自分で考えて生きていくしかないと悟ったんです。

藤本 「学歴」や「若さ」にはすがれないという、ある種の「あきらめ」があったわけですね。

村田 そうですね。最初の就職先に外資系IT企業の営業を選んだのも、それが理由です。実力主義の世界に飛び込み、とにかく自分を鍛えるしかない。自分で道を切り開くんだ……。こんな感じで「自分の道は自分でつくっていきたい」という境地にたどり着いたんだと思います。

藤本 当時、ともに切磋琢磨していたほかの我究館(編集部注:『絶対内定』シリーズ著者、杉村太郎氏が創業した就職スクール)の学生は、どのような進路を選んでいる人が多かったのですか?

村田 広告やマスコミといった人気業界を目指す人が多かったですね。その中で私は、もともと「社会貢献」というものにすごく興味があって。ちょっと、主流とはズレていましたね(苦笑)。

藤本 その思いが「国境なき医師団」としての現在の活動につながっているんですね。

村田 はい。「会社に勤め、仕事を通じて社会貢献する」という考え方ももちろんあると思うんです。でも私は、もっとダイレクトに社会貢献できる人間になりたかった。そこで、「まずは社会経験を積んで、自分を鍛えて、その先は政治家になりたい」と考えるようになったんです。

藤本 政治家ですか。その考え方は、当時の我究館ではかなり珍しかったのではないですか?

村田 ほとんどいませんでしたね。だから最初は、なんとなく「俺は政治家になりたい!」と言い出しづらくて……(苦笑)。みんなが業界研究をしているときにも、自分はなんか「ちょっと違うんだよなぁ……」なんて思いながら、周りに合わせてやっていたんです。

でも「自分の道は自分でつくっていきたい」という生き方を見つけ、胸を張って「自分はこんなふうに生きたい」「こんな人間になりたい」と宣言できるようになりました。

藤本 外資系IT企業ではどれくらい勤められたんですか?

村田 3年ほどですね。働く中で「国境なき医師団」の存在を知り「政治家よりももっとダイレクトに社会貢献ができる」と考えました。

ただ「国境なき医師団」って、英語で一定以上コミュニケーションがとれないと参加できないんですね。それで結局、会社を辞めてから1年半ほど「フリーターをしながら英語の勉強をする」というインターバルの期間が生まれてしまうんですけど……(苦笑)。

藤本 「国境なき医師団に参加したいから、会社を辞める」と聞いたら、同僚の方はどんな反応でしたか?

村田 驚いていましたね(笑)。その会社にとって転職は珍しいことではなかった。でも、そのほとんどは同じような大手外資系IT企業への転職と相場が決まっていました。だから「国境なき医師団に参加したい」と言ったら「なんだ、お前」「変わってるなぁ」と、奇異の目で見られました(笑)。

そんなときにまた、(杉村)太郎(編集部注:『絶対内定』シリーズ著者。我究館創業者)さんに会いにいったんですよ。