ひたすら痛みに耐えるだけの半年間だったけれど
結局、完全にもう大丈夫、と言えるようになるまで、半年くらいの時間を要しました。その間ずっと心のどこかに傷があって、片時も忘れることはありませんでした。何にも心からは熱中できず、友人と会っても本を読んでも映画を見ても、何をしても心からは楽しめません。いつもどこかではぽっかりと空洞ができたような寂しさを感じていました。だから正直あの半年間、自分が何をしていたのかまるで思い出せないのです。何も有益なものを生み出していなかったような気がするし、人に言えるようなことは何一つしていなかった。ただダラダラと時間がすぎるのを待っていただけでした。9.5割の人が「時間の無駄」とラベル付けするような過ごし方をしました。
けれどその半年が過ぎたときの私は、確実に何かが変わっていました。頭が良くなったとか、仕事が出来るようになったとかそういうことではありません。むしろ社会的には、より無能で使えない人間になっていたかもしれない。半年をひたすら苦しみに耐えるためだけに使っていたのだから当たり前です。でも不思議と、体は軽やかでした。あんな辛い思いは二度とごめんだと思ったけれど、確実に自分に必要な出来事だったという確信がありました。あの息ができないほどの痛みは味わう価値があったのだと、直感的に思いました。
その経験は、表面的には絶対に役に立たないし、社会で評価されるわけでもありません。そんなことに時間を費やすなんで暇だからだ、なんて言う人たちもいます。でも、まさにこの痛みの感覚こそ、私にとっては「本にも答えが載っていない未知の物事」そのものでした。説明できない漠然とした何か。別れた彼に言わせれば、言葉ではとても説明できない「小難しいこと」でした。今あるこの感情を彼に話したとしても、全く理解してもらえないでしょう。「『失恋の何が辛いのか』とか、考える意味あるの?」もう一度そう言われてしまってもおかしくありません。
もし実際に彼にそう聞かれたら、私はこう答えるでしょう。「意味なんてないよ」、と。意味もないし役にも立たないし、論理や言葉で説明することも出来ない。けれどこの苦しみや傷みを味わったことによって、確実に私の中の何かのスイッチが切り替わって、新しい仕組みや原理を見ることができたような気がしてならないのです。
私はその苦しみさえも、面白がることができました。新しい何かが自分の中にストンと落ちるあの感覚が、面白くて仕方なかった。だからこそ考えることをやめられないし、傷つくかもしれなくても、次の新たな感覚へと手をのばしたくなってしまうのです。
問題を「解決しない」という決断が心を癒してくれることもある
たとえば恋煩いのような、考えてもしょうがないことについてエネルギーを使うのは暇だからだ、という人もいます。その考えを完全に否定することはできません。なぜなら、たしかに私は恋をしたことによって多くの時間を犠牲にしてきたからです。まして私は失恋のせいで、苦しみの沼に半年間も投獄されることにもなりました。恋をしていなければもっと多くのことに挑戦できたし、新たな知識が得られたかもしれないし、自分の夢が広がったかもしれない。けれどそれでも、と私は思うのです。それでも私は恋をすべきだったんだ、と。
人間は所詮動物の延長線上にいる生き物に過ぎないし、恋愛も性欲の延長に過ぎないのかもしれない。さらにはっきり言ってしまえば、私の考えには論理的説明も根拠も何もないのです。全く筋の通らない、感覚的なことを無理やり言葉に置き換えて吐き出しているだけです。辛かったことを辛かったままにしておくのがあまりにしんどいから、「経験してよかった」とポジティブなカテゴライズをしているに過ぎないのかもしれない。簡単に論破されてしまいそうな脆いつぶやきです。
でも、私は、そんなぐちゃぐちゃとした、うまく説明ができないものごとが、愛おしくて仕方がないのです。誰の役にも立たない自己満足の感覚かもしれなくても、しっかりと根を張って考え続ける行為こそが、私の人生を前に動かす肥やしになります。発生した悩みを「簡単に解決しない」という選択肢によって、私は救われてきました。
矛盾しているようですが、「解決しよう」という決断よりも「解決しない」という決断の方がずっと心を癒してくれることもあるのです。