元同僚の熱意に押され
地雷除去NPOを創設

 1年の修行を終えた後、土井氏は自衛隊の援護を受けて小松製作所(コマツ)の顧問となった。将官まで上り詰めた者は、防衛関連企業の顧問となるケースが多い。そういう点では、1年遅れとは言え“順当”なポストだったと言える。

 コマツでは内心、「空気社員」を自身の生き方として掲げていた。つまり「会社のエンジンにもブレーキにもならない」ような生き方だ。そんな土井氏の人生を変えたのは、かつての同僚だった。国際協力機構(JICA)の職員として勤務していた元同僚は、コマツ本社にやってくると、突然切り出した。

「土井連隊長! カンボジアで地雷処理のNGO(非政府組織)を創設してください!」

 いくらなんでも、それは無理だ――。即座にそう判断したが、元同僚の熱意に押され、一度だけカンボジアを訪ねることを約束した。実際に現地の活動を見ても、地雷処理は難しいように思われた。地雷処理活動を行うためには、どう計算しても100人単位の人員と年に5000万から億円単位の経費が必要となる。とても、熱意だけでは活動できない。

 一方、現地の様子を見ることで「不発弾処理であれば……」との思いが頭をもたげた。対人地雷による死者や負傷者はセンセーショナルに報道されることが多いが、世界的には不発弾による死亡者もかなりの数に上る。不発弾処理であれば少人数、年間500万円ほどの予算で対応できる。スキルもある。どう考えても適任者は自分自身だ。

「目の前にある使命から逃げれば、将来後悔が棘(とげ)となって自分をさいなみ続けるだろう」と確信。視察を終え、ホテルに戻ると一晩で不発弾処理に向けた計画を練り上げ、翌日カンボジア地雷処理センターの副長官に、地雷処理ではなく不発弾処理活動を実施することを伝えた。もうけは出ない仕事だが、外務省からの資金援助が下りるまでの2年間は、自己資金・自己責任で実行することに決めた。

 覚悟を決めれば、次に必要なのは人員だ。給与も満足には払えず、住環境も日本よりも格段に悪い。任務は命を脅かすほどの危険を伴う。それでも、仲間は集まった。多くが元自衛官だった。「みな、任官時に『事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責任の完遂に務め、国民の負託にこたえることを誓います』という宣誓を行ったときの気持ちのままだった。制服を脱いでも、心は制服を脱いでいないのだと実感した」と振り返る。

 こうして2002年7月、「日本地雷処理を支援する会(Japan Mine Action Service:JMAS)」が活動を開始した。不測の事態には何度も直面したが、「困ったことが起こると、必ず助け人が現れる。JMASは強運の星の下にいる」と土井氏は笑う。JMASの活動は、「オヤジたちの国際貢献」としてメディアでも大きく取り上げられた。

 幸い、コマツは会社に籍を置いたままの活動を認めてくれた。外務省からも想定以上のスピードで支援の手が伸びた。外務省の支援資金担当者は、「自衛官OBによる設立されたばかりの組織に資金贈与をすべきではない」と反対したそうだが、活動の趣旨に賛同した課長が説得してくれたことを、後になってから知った。