大会前にカタール入り
入念な打ち合わせも

 専属シェフとして代表に帯同しているときの西さんの一日は多忙を極める。

「例えば朝食が午前8時の場合は2時間前の6時から朝食の準備をして、オムレツとか目玉焼きなどを目の前で作る。通常では選手に続いてスタッフが食べ終わるのが、10時とか10時半ですかね」

 選手たちの目の前で作る「ライブ・クッキング」も、西さんがこだわりを持ち続けてきた。カセットコンロをホテルへ持ち込み、卵料理だけでなくパスタなども、選手たちの五感を刺激し、かつ味付けなどのリクエストも聞きながら調理する。もちろん昼食でも、そして夕食でも実践する。

「そして、次はお昼の準備をする。1時がランチだと、だいたい2時半、3時ぐらいになっちゃいますかね。最後に終わり次第夕食の準備をする。8時の夕食だと終わるのが10時半ぐらいになりますかね。そこから翌日の仕込みをちょっとして、シャワーを浴びて布団に入るという感じですね。夕食の準備が早く終われば、そこで休憩も取れます。あとは試合の開始時間によっても変わるので、夜にすべてが終わったときに、ちょっとだけホッとするような日々の繰り返しでしょうか」

 実は試合を終えた後の夕食にもルーティーンが設けられている。ホテルでテレビ越しに日本を応援するとしても、見るのはおそらく前半だけ。選手たちが帰ってくる時間に合わせて、出来たてのカレーライスを作る。具材に関しては、実は「ポークが一番好評なんですけどね」と苦笑する。

「なのでチキンやビーフに加えて、あとは羊肉もありますね。ラムも普通においしければミンチにしたりして、その3種類で対応したいと思っています」

 今年1月に還暦を迎えた。そして、7大会連続7度目のW杯出場へ王手をかけて、敵地シドニーへ乗り込んだ3月シリーズ。オーストラリア代表との大一番を翌日に控えた同23日だった。いつも通りにウナギのかば焼きに舌鼓を打った選手たちが、予期せぬサプライズを用意していた。

 選手たちから還暦を祝う形で贈られたのは、赤いちゃんちゃんこに倣った赤いコックコートだった。大事な一戦へ向けて緊張感を高めている、と思っていた西さんは驚かずにはいられなかった。

「普通に考えれば、例えば試合で負けたりすれば『前の日に西さんにあんなちゃんちゃんこを渡すからだよ』となるのが正直なところで。その意味ではオーストラリアに勝って、逆に縁起のいいコックコートになりました。選手のみなさんからは『これから試合がある日は、その縁起のいいちゃんちゃんこを必ず着て調理してください』と言われたので、そうしなきゃいけないですね」

3月のオーストラリア戦前日に贈られた赤いコックコートを着て選手たちと記念撮影3月のオーストラリア戦前日に贈られた赤いコックコートを着て選手たちと記念撮影(中央が西さん) (c)JFA

 9月のドイツ遠征にも帯同した西さんは、帰国する前にカタールへ立ち寄っている。代表が泊まるドーハ市内のホテルを訪ね、下見を兼ねて入念な打ち合わせをしている。

「どのような環境で作るのか、という点でまずは厨房の中を確認して、冷蔵庫や冷凍庫、食材もチェックしました。調理場の空調や、どの場所に何を置くのかといった食事会場のセッティング。あとは調理場から食事会場までの移動方法もそうですし、自分の部屋も、ですね。ホテルのシェフや厨房のスタッフとも打ち合わせをしてきましたし、今までにないいい環境だと思っています」

 もっとも、これまでのW杯とは一つだけ異なる思いを胸中に秘めてきた。

「5回目のW杯ですし、年齢的にも今回を最後に代表の専属シェフを最後にしようと思っています。もちろん常に同じ気持ちで臨んでいますし、選手のみなさんがいい成績を残すのが大事ですし、そこで私が意識を高ぶらせて、アドレナリンを出しても意味がない。そこは普通に、淡々といきます」

 西さんの突然の“引退宣言”に、日本サッカー協会の広報もすぐに「辞めませんけどね。まだまだ続くと思います。みなさん、気になさらずお願いします」と言葉を挟んだ。笑い飛ばす西さんとの間に脈打つ、厚い信頼関係を感じずにはいられなかった。

 ともあれ、選手たちの胃袋を支えるための準備をすべて終え、カタールでの戦いが幕を開けた。ドイツ戦のキックオフは現地時間の23日午後4時(日本時間同10時)。赤いコックコートに袖を通し、選手たちから「西さんのご飯のおかげで勝てました」と次々に声が上がる光景を思い浮かべながら、西さんは愛情というスパイスが効いた夕食のカレーを作ってチームの帰りを待つ。