「打ち上げ花火的イベント」は
人口減少した日本では通用しない

 よく日本では市場が縮小すると、「○○離れ」という表現を使うことが多い。例えば、「若者の自動車離れ」は、自動車の維持費用が高いから、「テレビ離れ」はスマホや動画サービスが普及したから、という感じだ。

 もちろん、そういう側面があることは確かだ。しかし、実はそれらの根本的なところを突き詰めていうと、「人が離れているのではなく、人が消えている」ということの方が大きい。日本は「人口減少」の影響をナメており、この「現実」を無視して市場が縮小している理由を説明しようとするので、「こういう要素で消費者が離れている」というストーリーに流れがちなのだ。

 気持ちはわかるが、これはあまりよろしくない。

 前の戦争で、絶望的な状況に追い込まれるまで日米の国力差をナメていたように、日本人は尻に火がつくまで「現実」から頑なに目を逸らすという悪いクセがある。

 招致前は「東京五輪で日本は再び栄光を取り戻す」と息巻いていた人々がみな沈黙して、汚職と利権の祭典になってしまった。しかも、あれだけ税金を注ぎ込んだスポーツイベントなのに、スポーツ振興にも繋がっていない。

 そして、あれほど国民的イベントだったサッカーワールドカップもかつてほどの盛り上がりに欠けている。有料チャンネルではあるが、今や世界中の試合が見られるなど環境は整っているにもかかわらずだ。

 この二つの現象は、昭和の人口増社会でやってきた「打ち上げ花火的イベント」が、いよいよ人口減少社会ではまったく通用しなくなってきた、という厳しい現実を示している。

 そろそろ、「人口減少」と「巨大スポーツイベントの弊害」について真剣に国民的な議論をすべき時ではないか。

(ノンフィクションライター 窪田順生)