一般論より、自分のことを聞きたい
西智弘(以下、西):新型コロナのワクチン1回目が終わった頃に街の人たちにワクチンへの不安や不満を聞く会を持ったところ、たくさんの人が来てくれたのですが、厚労省が散々発信してきたワクチンと副作用の説明より、「自分にとってはどうなのかを聞きたい」「私の言い分を聞いてほしい」と口にする人が多かったのが印象的でした。
聞く側の準備ができていない段階でワーッと言われても、「それって私のこと?」となるんですよね。自分のことと捉えられていないからこそ、「私はワクチン打ちません」となる。厚労省のようにマスに向かって一方的に話すだけでは、やはり分断が生じてしまうと感じました。
浅生:山本先生がご専門のがん治療には、標準治療と代替治療の問題があります。医師の先生から「これが標準治療ですよ」と言われたものよりも、自分で探して見つけた治療のほうが正しいと思い込んでしまう患者がたくさんいる。やはり医師側がうまく「聞けて」いなかったからでしょうか。
山本:今の西先生のお話にもつながりますが、患者さんは一般論ではなく、唯一無二の存在である自分に最も合う治療を知りたいのです。医師が統計学的に確かな知見を伝えるのは、ある意味正しいのですが、患者さんが求めるものとは乖離している。そこに大きな分断があります。
だから自分に合った方法をなんとか見つけようと一生懸命調べ、ある方法にたどり着いた場合、それが嘘だったとしても、本人は気づけず、しがみついてしまう。
自分の物語を押しつけない
浅生:医療分野での対立は、身体や心の健康被害を生む可能性があるので、できる限り避けたい。にもかかわらず、自らが分断を生む方向に転がっていっている人を、医師としてどうすべきだと思いますか。
大塚:救いたいですよね。その気持ちは今も昔も変わっていません。でも、かつての僕は救いたい一心で、患者さんに「ステロイドは安全です、これがアトピーの標準治療です」と、30分から1時間もかけて説明していた。患者さんは「わかりました」と言って帰るのですが、その後、2度と受診してくれなかった。
なぜダメだったんだろう、とずっと疑問に思っていました。数年考えてわかったのが、僕は一方的にしゃべるだけで、患者さんの抱えている問題、ステロイドへの不安を何も聞いてあげていなかったということでした。
そこで、さっきのカウンセラーの話のように、私も患者さんと関係ない話をすることにしました。お互いの共通の話ができるようになってから、「ステロイドはどうですか」と持っていくように心がけた結果、僕を受診する脱ステロイド派の方はみんな引き留められるようになり、最終的に全員がよくなっています。
考えたら、友人と意見の合わないテーマについて突き詰めて話したりはしませんよね。親しい友人との間でも、触れないでおこうという領域は当然ある。それが普通の人間関係なのに、診察室ではガチンコで向き合ってしまっていたのが、間違いでした。
たられば:大塚先生のお話を聞きながら、お医者さんと患者の関係は、編集者とライターの関係に似ているなと思いました。編集者は、ライターさんが原稿を持って来たとき、文章力を判断しながら赤入れをします。でも「それは自分の文体だから、そっちの基準で直さないでくれ」と言ってくる人もいて、「文章には上手い下手があり、これは下手だから直すんです」と説明することになる。
お医者さんに「病気には必ず原因と機序があるはずだ」という物語がある一方で、患者には「私の場合は違うかもしれない」という思いがあり、すれ違いが生じている。これは、「もっと多くの人に読んでもらえる文章にするには技術が必要だ」と思っている編集者と、「私の文体、原稿への思いはどうなるんだ」と思うライターさんのすれ違いと同じだな、と。