老いや病に抗わない
浅生:平均寿命が80歳を超えて久しい昨今ですが、生物としての人間は20代半ばでピークを迎えるので、実は人生の大半は「老」なんですよね。平均寿命が50歳以下だった時代には半々だったのが、今はプラス30年も「老」が続いている。
そうなると僕らは随分と古いものの考え方、OSを引きずって生きていることになる。人生のほとんどは「老」であるというところから考え直すべきなんじゃないかと、お話を聞いていて思いました。
吉村:面白いですね。
浅生:仏教では「老」はどう捉えているんですか?
吉村:抗えないものですね。「生老病死」の「四苦」は自分の思い通りにならないものであると前提にしなくてはいけない。老や病、死を否認することは、あまり意味がないというのが仏教の捉え方です。そうであるなら、それらから目を逸らすのではなく、真正面からじっくり見ていきましょうと。
ちゃんと見ようとしないから怖いわけなので。イメージで怖くなっている。実際に見つめて「ああ、こういうことだったんだ」とわかってくると、それまでの漠然とした不安が消えていき、「じゃあこうすればなんとかなるかもしれない」と解決策が見えてきたりもする。
浅生:わからないから怖いということですね。
吉村:そうですね。しっかりとわかることから逃げないことが大事です。老いについても、当たり前の人間の営みとして受け止める。
老いへの発想を転換する
吉村:昔、赤瀬川原平さんの『老人力』(筑摩書房)がベストセラーになりましたね。物忘れはボケではなく「力」なんだ、と。あの捉え方は面白かった。忘れる力を手に入れたと考えていくと、余計なことを考えずに済みます。
現実問題としては、忘れてはいけないことも忘れてしまうので、それをフォローできる社会の仕組みや人間関係が必要ですが、個人としてはそのように捉え方を変えるだけで楽になる部分はある。
西智弘(以下、西):僕は、毎朝ラジオをやっているのですが、あれも老いを感じ始めたことがきっかけだったんです。
市原:どういうこと?
西:肉体的にも精神的にも成長とは逆の衰え、喪失を自らの中に発見したとき、「ああ、老いてしまったな」と下を向くのではなく、「見つけた! しゃべろう!」というモチベーションに変えたら気持ちが楽になったんです。
自分がこういうふうに老いていますよ、と言葉にすることによって、僕は自分の老いを「発見」している。吉村さんがおっしゃった「老いを見つめる」の僕なりのやり方ですね。
もちろんそれで答えが見つけるわけじゃないのですが、若い頃のみずみずしい感性が失われた以上、臨床現場でどうすれば同程度のパフォーマンスを発揮できるか考えるようにすれば、医師として一段階進めますよね。そうした訓練は40代から徐々にやっていくといい気がします。
市原:先生は「このタイミングで考え方をシフトしよう」というのを、OSをアップデートして新しいアプリを入れる感じでやったんですね。