知られざるエリート人脈 大学弁論部の正体#10Photo by Kazuki Nagoya

政界の登竜門、早稲田大学雄弁会から当時は異端のコンサルティング業界に“第1号”として身を投じたのが、デロイト トーマツ グループの松江英夫執行役だ。松江氏は「コンサルの本質は雄弁にあり」と喝破する。特集『知られざるエリート人脈 大学弁論部の正体』(全10回)の最終回では、松江氏のインタビューをお届けする。(聞き手/ダイヤモンド編集部副編集長 名古屋和希)

雄弁会の門をたたくも「ボコボコに」
派閥解消を訴え、幹事長選に出馬も

――早稲田大学雄弁会に入部したのはなぜですか。

 高校受験の頃に、雄弁会の存在をテレビで知りました。1990年に早稲田に入学すると、雄弁会ってどんなことをするところだろうと好奇心を持ち、門をたたきました。

 新歓は極めてユニークでした。本来、サークルは新入生に入部してほしいはずですが、雄弁会は突き返すのです。雄弁会のブースに行くと、「君は何で来たんだ」から始まり、社会の何が問題だと思うのかと突っ込まれるわけです。

 私は南北問題に興味を持っていました。メキシコに行く機会があり、同い年の子どもの貧困を目の当たりにしたことがありました。それで、南北問題に興味を持っていると話すと、「体験よりもなぜ君はそう思ったかを話してくれ」と徹底的に聞かれる。当時の言葉で「前提質問」といい、要はなぜそう考えたのか前提を問うというものでした。

 19歳ぐらいの学生ですから、そこまで物事を深く考えたことはなくショックを受けました。しかし、悔しいのでまた門をたたくと、またボコボコにされる。何回か繰り返しているうちに「結構面白いやつだな」と言ってくれて。話を聞いてもらえるようになるまでに、1カ月ぐらいかかりました。5月の連休に新歓合宿があって、これがもう「集団リンチ」(笑)。100人ぐらいいた入部希望者のうち、残ったのはわずか十数人でした。

――入部後はどんな活動をしていたのですか。

 今度はまた違う現実を見ることになります。当時、雄弁会では派閥抗争がありました。まだ55年体制があり、政治的に左から右までいろいろな人たちがいました。

 入部してからしばらくすると派閥の人間関係ができてきます。議論でボコボコにされた後に、なぜか優しい声を掛けてくる先輩がいる。それが派閥の勧誘でした。どうやら派閥というものがあるらしいと気付くわけです。

 けれども、自分は派閥の存在が正直腹落ちしませんでした。自分と同じような考え方の部員がいて、派閥は意味がないという人が集まるグループがありました。それが派閥じゃないかという突っ込みもありましたが(笑)。

 結局、私は派閥解消のための派閥に属しました。少し前の代で「3派体制」(編集部注:雄弁会の派閥抗争については本特集#2『早大雄弁会は今や「派閥なし・選挙なし」、首相5人輩出の“政治家登竜門”を一変させた地殻変動』参照)は終わっていたのですが、まだ雄弁会にはわれわれを含めた三つの派閥が残っていました。

――派閥は解消できたのでしょうか。

 結論から言うと、派閥は解消されました。実は、2年生のときに派閥解消を訴え、幹事長選挙に出馬しました。一人一人を説得し、支持を呼び掛けました。

 三つの派閥ではわれわれが一番数は多かったのですが、ほかの二つの派閥に組まれてしまった。前日に、ほかの派閥の部員は雲隠れしてしまい、説得できない。選挙の会場に行くと、2派が一緒にいる。これは負けたな、と。

 負けは分かっていましたが、演説でしっかり訴えました。すると、2派の若手部員の何人かが、派閥に疑問を持ってくれたようでした。負けっぷりが良かったので、共感を呼んだのかもしれません。次第に2派は崩れていき、われわれの派閥が過半数を占めるようになりました。その後、派閥の後輩が選挙に勝利し、3年かけて派閥は完全に解消されました。

次ページでは松江氏が、雄弁会での活動を通じて理解した、雄弁という行為の本質について解説する。そして、雄弁という行為が、対話型AIの登場で改めて重要な意味を持つようになっていると断じる。さらに、雄弁会出身でコンサルタントの道を選んだ理由や、コンサルと雄弁の親和性についても明かしていく。