だが、そんな必要はない。たとえば、60代後半で50%が働いているといっても、半分は働いていない。しかも、働いている半分の人たちも、時間数や日数など就業形態はさまざまである。

 60歳過ぎても、65歳過ぎても働くようにというこの方針には、税収を増やしたい、年金支払いを先送りしたいといった政府の目論見も絡んでいると見られる。仕事をせずに趣味などで充実した生活をしている人は、その生活を大切にすべきだろう。そんな生活が手に入るのは、長年働いてきたご褒美なのだと思って、充実した趣味人の生活を思う存分楽しめばいい。

 働いている高齢者の方が健康度が高いとか、健康寿命が高いといった調査データも示され、「いくつになっても働くべきだ」といった論調になりがちだが、やることがなくて退屈しているよりも、やることがあって充実している方が、心身の健康のために良い、というように解釈すべきだろう。やることは仕事でも趣味でも、何でもよいのである。

仕事中心の生活に虚しさを感じることもあったのでは

 定年退職を恐れる人も、タイムマネジメントなどといって、効率ばかりを気にする生活に虚しさを感じることもあったのではないか。

 きちんとタイムマネジメントをして無駄を削ぎ落とす。それによって効率良く仕事ができ、有能な働き手になれる。……こうした発想にはビジネス界の厳しさがあらわれているが、使いやすい人材に仕立てるという経営者側の魂胆も見え隠れする。もちろん自ら「使える人材になりたい!」と思う人もいるだろうが、もう少し人間的な生活をしたい、ゆとりがほしいと思うこともあるのではないか。

 いくらタイムマネジメントによって時間を節約したところで、自分にとっての豊かな時間が生まれるわけではない。より多くの仕事を詰め込むための時間が生まれるだけである。それによって自分らしい生き方を模索する心の余裕は失われていく。働き盛りはそれも仕方ないかもしれないが、ずっと続くのもどこか虚しい。定年退職を迎えれば、そうした非人間的な生活から解放されるのである。

 これまでは生きる糧を得るために必死で、“使える労働力”に徹する必要があった。生産性向上の邪魔になるものはすべて無駄として切り捨てる。それはまるで産業用ロボットのような生活だったと言ってよい。でも、これからはそんな非人間的な日々を送らなくて済む。規則正しい毎日を繰り返す必要はないし、無駄をなくすべく効率的に過ごす必要もない。これまで効率性を重視してバリバリ働いてきた人ほど、無駄として切り捨ててきた物事は多いはずだが、もう切り捨てなくてよいのだ。