“取り替え可能な人材”として生きてきたことに愕然とする

 有能な働き手であった人ほど、組織のもつ評価軸上で高評価が得られるような働き方に徹してきたはずである。評価される人材としての自分を一所懸命に生きてきたと言ってよいだろう。

 そのような人は、自分の気持ちや欲求を無視して、ひたすら効率的かつ生産的な毎日を送ってきたに違いない。ときに趣味人として充実したプライベート生活を楽しんでいる同僚を羨ましく思うことがあっても、そんな思いは即に封じ込め、有能な機能的人材としての道を歩んできたのだろう。

 でも、定年退職を迎える頃には、そのような機能的人材は簡単に取り替えがきくものであったことに気付く。自分が退職しても、代わりにその機能を担う人材がいて、組織には何の支障も生じない。そんな自分と違って、趣味人として充実したプライベートを楽しみながら仕事生活をこなしてきた人物は、けっして取り換えのきかない個性的な人生を送っている。

 仕事一筋に生きてきた人ほど、そのことに気付いたときに受ける衝撃は大きい。いとも簡単に取り替えがきく人材に過ぎなかった自分。そんな自分を意識することで、虚しさが込み上げてくる。これまでの仕事人生は何だったのだろうといった思いが脳裏をよぎる。これまでの自分の仕事人生すべてが無意味に思えてくる。

価値観の転換を図る絶好のチャンス

 だが、それは人生のステージが変わったために起こる価値観の揺らぎであって、以前のステージでは大いに意味のある生き方をしていたのである。ステージが変わることによって、人生の選択肢が増えたため、これまでは我慢しなければならなかった生き方に堂々と踏み出せる立場になった。それで以前の生き方が色あせてしまうのだ。

 定年退職の時期には、これまで重要な意味のあったことも意味を失う。利潤追求、コスト削減、顧客重視、コンプライアンス……そんなことのために自分の気持ちや考えを抑え込む必要がなくなる。そして、これまでは意味のなかったことの中から意味が湧き上がってきたりする。非効率、無駄、手間暇かかる、金がかかる……そうしたことを切り捨てない生活の中で、これまでの仕事人生で見失ってたものが見えてくる。 まさに価値観の転換を図るチャンスである。

 これまでの職業生活を貫いていた世俗的な価値観、もうけることを軸とした価値観から脱却しても良いのである。これまでの人生に意味がなかったというのではない。人生のステージによって、価値を置くべき事柄が違ってくるのだ。生活がかかっていた時期には、儲けるために働かざるを得ない。それは義務であり、その義務をしっかり果たすべく一所懸命に働いてきたからこそ、ご褒美として価値観を転換することが許される立場を手に入れたわけである。