昭和天皇の4人の
皇女のお相手

 日本では、皇女の結婚相手は皇族が原則だった。例外的に五摂家に嫁ぐことがあったが、適当な相手がいないと出家して尼門跡になった。

 江戸時代中期以降、霊元天皇の皇女が近衛家に嫁いでいるが、その後は、仁孝天皇の皇女和宮が徳川家茂に嫁いだのみだ。

 明治天皇には、皇女が4人いて、北白川宮、朝香宮、竹田宮、東久邇宮に嫁いだが、皇統断絶に備えた配慮もあったのだろうし、皇族身分を保持できるというメリットもあった。

 大正天皇は男子のみだが、昭和天皇には5人の内親王がいた(二女は夭折)。長女の成子さんは戦時中に東久邇宮盛厚王に嫁いだ。だが、1947年に、昭和天皇の弟が当主の4宮家を除いて11宮家を臣籍降下させたので、お相手探しが難しくなった。

 そこで、3人の皇女は、旧華族に嫁がせた。三女の和子さんは、五摂家のひとつで交通博物館勤務の鷹司平通氏。四女の厚子さんは、岡山藩主家の池田隆政氏、五女の貴子さんは、島津家分家で日向佐土原藩主家の島津久永氏がお相手だった。

 この4組の夫婦は、いずれも高祖父までの誰かと共通の先祖がいた。遺伝学者でもあった昭和天皇は、近親者との結婚は好まれず、三女の和子さんと母親同士が姉妹である東本願寺の大谷光紹氏との縁談が話題になったときには、難色を示されて破談にされた。

 しかし、皇女をお迎えしようという勇気ある家も少なく、曽祖父や高祖父が共通することくらいは仕方なかった。

 ただ、三男二女に恵まれた東久邇成子さんは別にして、鷹司和子さん、池田厚子さんには子どもがいないし、島津貴子さんも男子1人だけで、近親結婚が子孫をつくる力へ影響しているかもしれない。

 この4人の結婚の年齢を見ると、17歳、20歳、21歳、21歳である。また、学歴はいずれも学習院の高等女学校卒、女子研究科(短期大学の前身)通学、女子短期大学卒、大学中退で時代の変遷を感じさせる。