「私は1982年、仙台に生まれました。皆さまお気付きの方もいらっしゃると思いますが、私はゲイです。小学校になった頃に、私自身、自分がゲイであることを自覚し始めました。しかし、そのことを家族には相談できない苦しい毎日でした」

「学校では小さい頃から太っていたので、デブとか、ナヨナヨしていましたので、オカマとか、からかわれたり、心ない言葉を毎日のように浴びせかけられました。いっそのこと死んでしまおうかと思ったことも1度や2度ではありません」

「しかし、そんな私を励まし続けてくれたのは母でした。母は熱心な創価学会員です。誰も私のことを理解してくれない。そう涙を流す私を母は優しく包み込み、いつも必ずこう言いました。題目(※)よ、一緒に題目をあげようと」

※筆者注:日蓮が説いた「南無妙法蓮華経」の文句のこと

「母は私がゲイであることについて、その時知っていたかどうかは知りませんが、それでも母はそう言って、私の傷ついた心を必死で包み込んでくれました。私は母のそばで題目をあげるようになりました。すると、不安な気持ちが不思議と落ち着いてきたのです。題目を唱えるほどに穏やかな気持ちになる。そういう実感をつかみました」

 もしも自分の子どもが、デブとかオカマなどとののしられていたら、直接的に救う、つまり、いじめを解決すべく学校へ怒鳴り込むべきだろう、と私はまず思った。そして、この話を聞きながら、美雲氏に題目をあげようとしか言わない(=解決に動かない)母親に対して反感を抱いてしまった。

 しかし、よくよく考えたら、世の中にはそんなことができない人だって多い。強いだけが正しいリーダーシップではない。親が学校に訴えたからといって、いじめがより陰湿化してしまう恐れもあるのかもしれない。

 また、子どものいじめなら大人が解決できるのかもしれないが、現実社会において自分がいかに理不尽な立場に置かれていても、その環境を変革することができないこともあるだろう。やはり、宗教的なアプローチで人々の心を救うというのは、必要なものだ。

 しかし、しつこいようだが、積極的に助けてあげようとする宗教的な行為を否定しないものの、私という個人の感情からいえば「大きなお世話」でしかない。創価学会員の友人もいるし、家族もいる私ではあるが、宗教というものは、こちらが助けてほしいと願ったときに助けてほしいものだ。