新三河島~お花茶屋間の近距離だがボリュームの大きい利用者を対象とした各駅停車、押上と直通先の都営浅草線方面は、千葉方面からの中長距離利用者を対象とした優等列車ですみ分けしている格好だが、やはり上野方面は「本線」としては地味な印象だ。

浅草延長線を断念し
上野乗り入れを構想

 京成電鉄が開業したのは首都圏鉄道事業者の中では早い1912年11月だが、当初のターミナルは押上だった。押上は今でこそ東京スカイツリーを中心に開発が進んでいるが、大正時代は隅田川に隔てられた「へき地」であった。

 京成五十五年史は「起点押上の設定についても、今考えると、なぜあのような場所を選んだのか不審の念を抱かざるを得ません」と自嘲しつつも、両国から千葉・成田方面を結ぶ国鉄総武線との競合を避け、また、二大盛り場である浅草・上野への連絡を容易にするために、押上にターミナルを置いたと説明する。

 そこで京成は1920年代にさまざまなルートで「都心」乗り入れを画策した。まず検討したのが、1923年4月28日に出願した荒川橋梁付近から吉原、入谷を経て上野駅東口(浅草口)まで5.6キロの高架線を建設する計画だ。

 しかしこれは東京市会で否決されてしまい、直後に関東大震災が発生したため、すぐに軌道修正。曳舟付近から分岐して隅田川を渡り、浅草に乗り入れる路線を同年11月に出願した。

 同じ頃、東武鉄道も浅草乗り入れを計画しており、両者が激しく争う中で1928年9月、市会議員への贈収賄容疑で社長以下幹部が起訴される「京成疑獄」事件を引き起こしている。

 浅草延長線は1931年7月に特許されるが、同年5月に東武鉄道は浅草乗り入れを果たしており、時期を逸してしまう。そこで改めて上野乗り入れを構想することになった。

つくばエクスプレスの祖先との
合併により上野乗り入れが実現

 ここで京成が目を付けたのが、つくばエクスプレスの祖先と言える未成線「筑波高速度電気鉄道」だ。同社は1927年に田端~筑波間を出願し、その後起点を日暮里に変更。三河島、西千住、西新井、流山、守谷、谷田部を経て筑波に至る本線と、荒川付近で分岐して綾瀬、青砥を経て松戸に至る支線の免許を取得した。

 しかし折しも昭和金融恐慌に始まる大不況が到来し、計画は暗礁に乗り上げた。やむなく筑波電鉄経営陣は東武鉄道に身売りを持ちかけたが、「そんな路線は東武には必要ない」とにべもなく断られた。