そこで京成と交渉したところ、渡りに船とばかりに話が進み、1930年に両社は合併。筑波電鉄の青砥~日暮里間の免許と、新規に取得した日暮里~上野間の特許を組み合わせ、上野線の建設に着手した。

 ところで筑波電鉄を袖にした東武だが、本心では自分たちが引き受けるつもりだったようで、筑波電鉄建設部長で後に京成取締役となった百武定一は「京成との話が決まったとき挨拶に伺ったら、大変な剣幕で君たちは不信だとしかられた」と語っている。浅草乗り入れで後れを取った京成としては、してやったりであった。

 こうして京成は悲願の上野乗り入れを実現させたが、彼らにとって必要だったのは「上野線」だけだったので、筑波電鉄の残る免許区間は着手されずに免許が失効した。もともと予定線の沿線人口は少なく、筑波山の観光需要だけでは事業は成立しなかっただろう。

 加えて、茨城県新治郡柿岡町(現石岡市柿岡)にある地磁気観測所に影響を及ぼすため、観測所から半径30キロ以内は電化が認められなかった。現在では、付近を走る常磐線やつくばエクスプレスは影響の少ない交流電化を採用しているが、当時は選択肢が直流電化しかなかったため事実上、建設は不可能だった。

 京成電鉄五十五年史は「その後の戦争さえなければ、筑波までの延伸が実現しただろう」と記しているが、実際には合併翌年の1931年に「合併後の状勢により直ちに工事施行の運びに至らず」として起業廃止を申請しており、本気ではなかったのだろう。

社運を懸けて臨んだ
上野トンネル建設めぐる御前会議

 上野線の建設には、もう一つの難関があった。上野公園の地下を走る約1.4キロの「上野トンネル」建設だ。寛永寺、国立博物館、図書館、動物園、学校などを避け、道路・歩道下にトンネルを敷設した。そのため地図にルートを重ねてみると、地下を走りながら最短経路は取れず、細かいカーブを組み合わせていることが分かる。