現場が会社をかばっているような印象さえ与えてしまう
そこに加えて、次の《2.小学館のここまでの対応への苦言や今後の提言》がないということも「会社にやらされている」という印象を抱かせてしまっている。
編集者一同の声明を出すまで、小学館の対応には、多くの作家や読者から批判の声が上がっていた。そういう声を受けて、立ち上がったはずの編集者一同がそのような批判にまったく触れずスルーしているのは、かなり不自然ではないか。
1989年に朝日新聞のカメラマンがサンゴを傷つけて記事を捏造する事件が起きた時や、TBSがオウム真理教に対して、取材で得た坂本堤弁護士一家の情報を伝えていた問題などがあった時も、両社の社員から会社に対して納得のいく説明をすべきだという声があがっていた。しかし、今回は声明の中では会社に対する苦言は一切なく、《私たちが声を挙げるのが遅かった》という表現があるように、現場が会社をかばっているような印象さえ受けてしまう。
そう聞くと、「外野は黙ってろ!このメッセージを出すだけでも小学館の編集者たちは相当、上層部と闘ったんだ。その頑張りを認めてやるべきだろ」というお叱りの声が飛んできそうだが、筆者が言いたいのは、まさしくその頑張りが透けて見えてしまうということだ。
「社畜」という言葉があるように、日本のサラリーマンたちは、会社の方針に逆らったり、現場が何か自由に言いたいことを言えるわけがないという「現実」の中で生きてきた。今回の「声明」を見て、組織で頑張るサラリーマンたちはちょっと読めば、会社のスタンスに沿っていて、どういう組織内力学で作成された文書かはなんとなく想像がついてしまう。会社勤め経験のない学生などは「勇気のある反乱だ!」と感動するかもしれないが、組織人は「編集者さんも頑張ったけれど、まあ巨大組織にいりゃあこれが限界だよね」とシラけてしまう。だから、本当に「現場の覚悟」を示したかったのなら、会社に対して何かしらの苦言・意見・提言は入れてほしかった。
ただ、そのような要素よりも、今回の声明で絶対に入れてほしかったと筆者が感じているのは、《3.芦原さんに「申し訳ない」という気持ちの表明》である。
実は、あの声明には「芦原さんに申し訳ない」という謝罪の気持ちが書かれていないのだ。