【30】1942年
激化する当局の言論弾圧
欠落ページと「削除済」印
さて、1942年6月のミッドウェー海戦で連合艦隊が大敗北を喫すると、戦局は次第に悪化していった。それに伴い、当局の言論に対する弾圧が厳しくなっていったことはよく知られるところである。
「ダイヤモンド」の表紙は長らく、銀行などの社名広告をズラリと並べるというスタイルで、「雑誌の一番目立つ場所を広告ページとして売る」という画期的な手法がとられていた。しかし、これが内閣直属機関で出版統制などを取り仕切る情報局の軍人の目に留まり、「表紙にまで広告をとる欲張った雑誌社がある。悪質な資本主義の標本だ」とやり玉に挙げられたという。
そのため、42年1月1日号からは表紙はグラフ図、イラストで経済問題を解説する「時局経済解説記事」に差し替えられた。
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また、記事の内容についても情報局の検閲が入り、不適当とされれば当該部分が削除され、虫食い状態で発行することになった。
例えば42年6月1日号に掲載された、軍事ジャーナリストの伊藤正徳による「珊瑚海海戦後の太平洋戦局」という記事は、記事の約半分が削除命令を受け、該当ページを破り捨てられ、表紙に「削除済」のスタンプを押されてようやく発刊が許された。ダイヤモンド社に残るデータベースにも、そのページは欠落したままである。
【31】1943年
“お国のために働く”とは
「社長徴用」に関する白熱議論
1943年4月11日号に「社長徴用と企業の国家性」という記事が掲載されている。
38年に制定された国家総動員法に基づき、国家の強権によって国民を軍需産業に労働力として動員する国民徴用が定着していた。国民勤労報国協力隊や女子勤労挺身(ていしん)隊、学徒勤労動員など、文字通り、国民総出で「お国のため」に働いた。
しかし、41年から民間企業への徴用が始まると、国家のためでなく民間企業の利益追求のために働いていることに対し、労働者の間から不満と怒りが出始めた。労働者は徴用され挺身しているというのに、社長をはじめ使用者は徴用でないという、労使関係の矛盾が問題視されたのだ。
そこで、第三次国民徴用令改正において「社長徴用」という規定が設けられた。労働者のみならず経営者も徴用に応じた「応徴士」として扱うことで、生産現場の一体感をより強固にしようという施策だ。
記事では経済連盟会調査課長の岩崎英恭、石炭統制会理事長の植村甲午郎、早稲田大学教授の酒枝義旗、秩父セメント常務取締役の諸井貫一の4人が、この社長徴用問題について議論している。政府の言う「皇国勤労観」をどう確立するか、企業の公共性と利潤追求の共存について、企業の国家性を強めるための内部組織をどう形成するかなど、話題は多岐にわたっていく。単純に「社長徴用」という制度だけで、事は解決しそうもなさそうに思える。
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時局産業とか平和産業と言いますけれども、もう今日では厳格に言うならば、いやしくも生産しているものは皆、時局産業であって、そういう軽重があるべきはずがない』
実際、社長徴用は建前に過ぎないとの批判が高まったことを受け、43年10月、政府は代わって軍需会社法を制定し、企業の国家性や勤労の公益性を明確化する方針を打ち出した。政府が「軍需会社」を指定し、その会社の生産責任者が政府に対して責任を負うことが定められたのだ。結局、44年1月に149社の軍需会社が指定され、敗戦までに688社が指定された。
【32】1944年
表紙を飾った画期的兵器
米英が恐れる「ロボット飛行機」
1944年に入ると連合国軍の勢力が急速に拡大し、日本の戦況は日に日に厳しくなっていった。サイパンやフィリピンといった日本にとって戦略的に重要な拠点が占領され、本格的な本土空襲も始まった。
紙の配給統制によって雑誌の発行も困難を極め、戦前は200ページ近くあった「ダイヤモンド」も44年5月1日号からはわずか16ページになってしまう。
当時は、表紙に図やイラストと共に時局経済解説を掲載していたことはすでに述べたが、その内容も戦意高揚や質素倹約などがテーマに上ることが増える。中には荒唐無稽なものもあった。
例えば、44年2月11日号の表紙には、「ロボット飛行機」がイラストと共に紹介されている。
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(中略)
兵器もここまで進めば、戦の勝敗を決するものは直接の戦闘のみではない。科学と産業と国民の底力である。励め!一億国民。不撓の努力が大切である。それが勝敗の鍵である』
落とされても血の出ないロボット飛行機どころか、実際にはこの年から神風特攻隊が組織され、米国から「日本人によって開発された唯一の、最も効果的な航空兵器」(米国戦略爆撃調査団報告)とやゆされるのだから皮肉な話だ。
さて、「ダイヤモンド」は45年4月21日号以来、用紙の手配がつかず一時休刊という状況に陥る。そして45年5月夜の空襲で社屋が全壊し、雑誌発行が完全に不可能になった。敗戦を経て、45年11月に復刊するまで長期休刊を余儀なくされるのである。