さらに、SNSの匿名性は、発言者が責任を負わないため、より過激で感情的に先鋭化する。終わりの会とは異なり、直接顔を合わせることがなく、相手への配慮や敬意も欠如しがちである。終わりの会は先生も見ているし、顔が見えるし、そうはいっても夕方までには終わるという意味で、まだましであった。

 終わりの会同様、SNS上での批判が必ずしも悪いわけでもない。公の場での反省や謝罪が、当事者にとって重要な学習機会となることもある。また、社会全体が問題行動に対して敏感になれば、より健全な社会を目指す機運にもつながる。

 しかし、度を超えた批判は、当事者や関係者の(あるいは攻撃する人の、さらにはそれを目にする人の)精神的な健康に重大な影響を与えることがあるため、そのバランスが重要であろう。

人間はゴシップから逃れられない
健全な議論のためにできることは?

 現在の有名人に対するSNSでの批判の問題は、本来は、問題行動を起こした有名人と被害を受けた人との間で直接的な解決の場が持たれるべきであり、他人がとやかく言うべき事柄ではない、ということに尽きる。

 とはいえ、この終わらない終わりの会は、小学校の終わりの会とは違って、好きなときに適当に、手軽に参加することができるのが厄介だ。毎日新しいネタが持ち込まれ、次から次へと出演者が変わって話題が展開される様子は、興味深いエンターテインメントと見えなくもない。