ペルー紀行を書きすぎました。実は、ここからが私が本当に書きたいことです。フジモリ氏の信条と日本政府のズレ、そして日本政府の外交上の大きな失点を指摘するのが本稿の目的です。
フジモリ氏は日本国籍を持っています。熊本県から1934年に両親がペルーに移住。同時に公使館に出生届を出して、日本国籍を得ました。ペルー在住の日本人は9万人から10万人と言われます。フジモリ氏は熊本出身ですが、それ以外では沖縄出身の日本人が大勢います。彼らがこの地に移住したのは、東北で大凶作があり、満州国で溥儀が皇帝に就任した頃のこと。日本は貧困に喘いで、政府が海外にほとんど棄民のように日本人を送りつけていた時期でした。
だからこそ、彼らは必死で働き、また日本に戻りたいという気持ちも強かったのでしょう。実際「日本人は働き者だ」とペルーでは尊敬され、外見からチーノ(中国人)と間違えられると、「いや、ハポンだ」と言い返せば、最敬礼されたと言います。
ある日系人の家を訪れたとき、ボロボロの『文藝春秋』が置いてありました。「ああ、この国に文藝春秋の編集者が来てくれるなんて、夢のようだよ」とその日系人は語り、1ページずつめくりながら感想を語ってくれます。
10年以上前の雑誌なのですが、何回も読み直したのでしょう。手垢にまみれ、もう表紙もすり切れた雑誌を見ながら窓の外を見ると、浜辺の向こうに太平洋が見えました。ここから日本まで1万5000km。何十年も前に汽船に乗ってこの国にやってきた人々は、どんな想いで海の向こうを見ていたのだろう――。そんなことを考えつつ、なんとか大統領のインタビューもとれました。正直、公式コメントのようなインタビューだったので、今回はとりあげません。むしろ一番心に残ったのが、親族の一人が大統領から聞いた話でした。
「一体いくら欲しいんだ?」
陰口を言い合う日本の政治家たち
1990年代前半、フジモリ大統領は、日本を訪問して多くの政治家に経済援助のお願いをしました。大統領は基本的に英語を使い、スペイン語もしゃべりますが、実は日本語もわかります。しかし、フジモリ氏を出迎えて食事会を開催した日本の大物議員たちは、公式の会食なので当然のように通訳を使うフジモリ氏を見て、日本語ができないと思い込んだようでした。
「一体、いくら欲しくて日本に来たんだ」「日本からの援助で、大統領を何期もする気なんだろうな」「まあ、他の南米の国より少し多めの援助をしておけば、大喜びだろうよ」「どうせあのあたりなら、賄賂に消えるだけ」と好き放題の悪口を語っており、席を蹴って帰ろうかと思ったほど非礼な言葉を浴びせられたというのです。