こんなふうに、モノなのか出来事(行為)なのかで解釈が変わる名詞は少なくない。

 たとえば「食事」も、食べる行為を表すこともあれば、食べ物を表すこともある。前者のように解釈すれば「食事を食べる」は不自然になるが、後者だとある程度は許容できそうだ。実際、会食(=食べる行為)の意味で「取引先との食事を食べた」と言うのはかなり不自然だが、「食卓に用意された食事(=食べるモノ)を食べた」だと、けっこう自然になる(ただし個人の感覚です)。

「違和感を感じる」に違和感を感じる人と感じない人の違いも、これで説明できるのではないか。

 つまり「違和感」を「何かを感じるという出来事」として捉えている人は、「違和感(=感じるという出来事)を感じる(=感じるという出来事)」となるので、結果として冗長だと感じる。他方、私のようなタイプは、「違和感」をモノ、つまり感じる対象として捉えており、「違和感(=感じるモノ)を感じる(=感じるという出来事)」と解釈しているために、冗長さを感じないのではないか。

 と、ここまで書いたところで、自分が「嫌悪感を感じる」という表現をかなり不自然だと思うことに気がついた。自分だったら「嫌悪を感じる」と言うような気がするし、「嫌悪感」と言った時点で「嫌悪を感じること」がすでに入っているような気がする。

「違和感を感じる」がアウトな人の感覚も、これと同じなのかもしれない。