実は、内田体制の1年目も、巨額赤字の計上によって役員報酬を減額することからスタートしている。結果的に内田体制が5年経過しようとする間に、日産はまたも業績不振に陥り、成長路線どころか、グローバル生産20%削減と9000人のリストラに着手せざるを得なくなった。まさに「元のもくあみ」といったところだろう。
出鼻からつまずいた内田体制
一方でホンダ提携などの新方向づくりも
ここで、内田日産体制が19年12月にスタートしてからの5年弱を振り返ってみたい。
まず、内田体制は始動時からつまずいた。
内田社長の就任とともに、仏ルノー出身で三菱自動車工業COO(最高執行責任者)のアシュワニ・グプタ氏がCOOに、さらに日産生え抜きで生産畑の関潤氏が副COOに就き、トロイカ体制でスタートした。
しかし、内田社長が予想外の“抜てき人事”だった一方、“本命視”されていた関氏はナンバー3にとどまった。その結果、当時の日本電産(現ニデック)の永守重信会長が関氏を後継の社長含みで直接勧誘し、12月末に関氏が電撃移籍してしまったのだ(その後、関氏は台湾・ホンハイに移籍し、ホンハイのEV〈電気自動車〉事業責任者に就任している)。
早くもトロイカ体制は崩れ去り、内田社長とグプタCOOの「2頭体制」で事業構造改革を実行することを余儀なくされた。この間、グプタCOOの実務推進力もあって、コストダウンと収益力向上は順調に進んでいく。