皿に乗せられたカマボコ

 かぼちゃをもらえるのはありがたいけれど、夫婦二人暮らしでは丸々一個は食べきれないし、切るのも大変だから料理するには腰が重い野菜だ。

 なにより野菜室を開けるたびにデンと居座るかぼちゃが目に入ると、「これを煮ないとお前は妻失格」「早く煮物を作らないと娘失格」「もうもらってきて1週間経ったよ? せっかくの母の好意を腐らせるつもり?」と責められている気分になる。

「うちは共働きだから、家事も夫と一緒にやるんだよ」「私だってたくさん働いているから、一人で家事を全部やるのは無理なんだよ」「仕事が忙しくて、毎日手の込んだ料理をする余裕はないんだよ」と何度言っても母は理解をしてくれない。

 口では「ふうん。そうなの」と言うけれど、心から分かっているわけではないので、次に会ったときも同じやりとりが繰り返される。

 母がくれるかぼちゃは美味しい。他の野菜も美味しい。でも、それらを使って品数が多い食事を作れない私は、母が期待する娘の姿にはなれていないと感じる。

 母は、いわゆる田舎の「本家」に嫁いで子どもたちを育ててきた「良妻賢母」である。口癖のように「女は愛嬌」「母は強し」などと繰り返す人で、食事は手作りにこだわってきた。実家の食卓にスーパーのお惣菜が並んだことはほとんどない。それは素晴らしいことで、感謝すべきことで、母が自分を誇るべきことだ。

 しかし同時に「全てを自分がやらなければ」と思い込み、実際に家の全てのことを(ときに盛大にパンクしながら)ひとりで抱え込み、結果として夫(私の父)は自分で目玉焼きもろくに作れない60代男性に仕上がってしまった。

 母が寝込んだとき、「俺の飯はいいから」と言った父は冷蔵庫にあったカマボコを皿に乗せて出してきたらしい。「病人にカマボコしか出さないやつがあるか」と母は怒り心頭だった。

 しかし、父を「病人にカマボコしか出せない男」にしてしまったのは間違いなく母である。「男は仕事、女は家庭」の時代であったとはいえ、父が家事を覚える機会を奪ってしまったのだ。もし母が父より先に死んだら、父はセルフネグレクト老人まっしぐらなのではないかと今から恐ろしい。

 そんな良妻賢母な母が作った栄養ある食事のおかげで私がいるのだから、感謝はしている。しかし同時に「夫から家事を覚える機会を奪うと、後々とんでもないことになる」という事例を身近に見て育ってしまったのだ。自分も仕事を持ち、自由にできる金を稼ぎ、夫となる人にはきっちり家事をしてもらわねばと考えるようになるのも必然である。

 母が母だったから、私が私になった。いろんな意味で。

「自分がやらなきゃ」

 昔から母に「自分がやらなきゃ」という思想から解放されて欲しかった。母は自ら進んで全ての家事を担いながらも、「私はこの家に縛られている」「私に自由はない」と言う。

「お母さん、そんなに頑張らなくてもいいんだよ」「お父さんにも自分のことは自分でやらせたらいいんだよ」と言っても、母の心には届かない。

 最近では母は入院していた祖父の在宅介護も担いはじめ、どうしてそんなに自分が苦しくなる方に自ら突き進んでしまうのか…と思ってしまう。

「それ(仕事)もいいけどちゃんと旦那さんにご飯は作ってるの? 旦那さんに感謝しないとね?」という言葉で呪いをかけられているのは、私ではない。母自身だ。

 お母さん、もう誰にも感謝しなくていい。誰のご飯も作らなくていい。誰の機嫌もうかがわなくていい。煮物も、もうつくらなくていい。お願いだからもう全員ほっぽらかして好きにして欲しい。

 母が夫や私たちよりも自分を優先するようになったとき、私は本当の意味で母を好きになれるのだと思う。でもそんな日はたぶん来そうにない。やっぱりいつも帰省のあとは、気分も荷物も重たいのだった。

月岡ツキ(つきおか・つき)
ライター・コラムニスト。1993年長野県生まれ。大学卒業後、webメディア編集やネット番組企画制作に従事。現在はライター・コラムニストとしてエッセイやインタビュー執筆などを行う。働き方、地方移住などのテーマのほか、既婚・DINKs(仮)として子どもを持たない選択について発信している。既婚子育て中の同僚と、Podcast番組『となりの芝生はソーブルー』を配信中。創作大賞2024にてエッセイ入選。2024年12月に初のエッセイ集『産む気もないのに生理かよ!』を飛鳥新社より刊行。