【前回までのあらすじ】「昭和の女帝」真木レイ子は、副総理秘書官という重責を担っていたが、満たされない日々を送っていた。そんなある日、タミヤ自動車専務の田宮浩二からドライブに誘われ、男女の関係となる。だが、田宮には妻子があった。(『小説・昭和の女帝』#25)
東大の女学生が亡くなった乱闘のさなか、レイ子が見たもの
日米安保条約が改定された1960年は、一般には政治の季節などと称されるが、レイ子にとっては紛れもなく、遅れてきた恋の季節だった。
副総理秘書官という立場上、政治に生活を振り回されたのは事実だが、タミヤ自動車専務の田宮浩二との恋にのぼせていた彼女は、どこか上の空だった。
とはいえ、安保がらみでは命の危険にさらされたこともあった。
あれは、新安保条約が自然承認される4日前の6月15日 のことだった。アメリカのアイゼンハワー大統領の訪日を目前に控えていたこともあって、全学連主流派はその日を「安保決戦の日」と位置づけていた。雨が降り出した夕刻、総理官邸や国会議事堂は「安保反対」を叫ぶ学生や運動家たちに取り囲まれ、「いつデモ隊が乱入してくるのか」と、政府関係者の緊張感は最高潮に達していた。
総理官邸に控えていた彼女に、院内にいる副総理の粕谷英雄から「会議が終わった」と連絡があった。
粕谷は、官邸から議事堂への70メートルを移動するのも命の危険が伴うことを認識していなかった。それでもレイ子は、粕谷を守らなければという秘書としての使命感に駆られ、半ば意地になって公用車に乗り込み議事堂へ迎えに行った。
しかし、案の定、公道上でデモ隊に囲まれてしまった。汚れた軍手でフロントガラスを叩かれる。ドンドンという鈍い音が前後左右から襲う。人びとは、怒りと熱狂で我を忘れていた。
突然、ガラスにひびが入るバリッという音が響く。こん棒のようなものでフロントガラスが割られそうになっているのだった。「引きずり出せ」と叫ぶ声がする。
もはや、彼女と運転手にはなすすべはなかった。なぜ、こんなことになってしまったのだろう。強大な戦勝国との条約改定に反対して日本の学生が体を張ったとしても何も変わりはしない。総理大臣の岸信介にはアメリカから莫大なカネが渡っており、そのカネは野党幹部にも流れていた。いったい誰が条約改定を止められるというのか。それが国会の現実だった。
運転手は下を向いて、「殺される」「殺される」と言って震えている。このままでは命を奪われかねないとレイ子も思った。助手席に座っていた彼女は運転手を平手打ちし、「正気になりなさい」と活を入れた 。
「大丈夫。私が責任を持つから、ひき殺さない程度にゆっくり前進して」。レイ子は運転手の耳元で叫ぶと、ガラスに顔を近づけてデモ隊を見やった。殺気立った男と目が合う。男は一瞬驚いた様子で目をそらし、いかにも調子が狂ったような表情で別の戦いに加わっていった。
そういった風景が彼女にはスローモーションのように見え、なぜか、「ああ、これは死ぬまで忘れられない情景になる」と思った。