正直、多額の費用がかかる習い事や留学などではなく、参加が必須の学校も多い「部活」に対し、「贅沢だ」「お金がないなら諦めるべき」といった声が大多数を占めたことは驚きだった。

 大学進学も、よく「贅沢だ」と言われるものの1つだ。

 大学の授業料は値上がりし続け、奨学金の利用率は年々増え続けている。また、賃金が上がらず、大卒でも低賃金で働く若者も多い。その結果、奨学金の返済が生活を圧迫し、苦しむ若者が増えている。

 そんな若者の現状が報じられるたび、「大学は贅沢だ」「高卒で働け」「お金がないのに行くほうが悪い」という声が噴出する。

本当に「大学進学」は
“贅沢品”なのか

 児童養護施設から大学に進学した学生を取材し、「大学は贅沢品か」というテーマで記事にしたことがある。

 この記事に寄せられたコメントでは、「社会に貢献したいというなら贅沢品ではないが、就職のためや、まだ学生生活を楽しみたいのなら贅沢品」「貧しくても学力や志のある人にとって贅沢品であってはならないが、Fランク(Fラン)なら贅沢品」「学力が高い学生は社会に貢献する可能性が高いから税金で支援するべき」といった「大学は贅沢品か」「教育費を公的に負担するべきか」は、条件や場合によって異なるという意見が圧倒的に多かった。

 もちろん、授業料免除などの制度や補助金は財源が限られているため、ある程度対象を絞ることは必要だろう。

 一方で、高等教育の学びにおいて動機の評価や選別をするのはそう簡単ではない。そして18歳の時点で進学の動機が定まっていないとして、それが「その程度の動機なら大学は贅沢品だ」と切り捨てるのはあまりに早計ではなかろうか。

「国益になるかどうか」が果たして学びの価値や目的のすべてなのか、その可能性を第三者が量れるのか、疑問は残る。

 いい(給料や条件のいい)会社に就職できなければ大学で学ぶ意味がない、学費の無駄という声もよく聞かれるが、学ぶことの意味は学歴を得て新卒カードを手に入れることだけではないのではないか。