美甘自身は、日本人の顔に関する論文で人種的な力学については触れていなかった。

 彼は一重まぶたを「不具合」として描写し、眼科医が見落としがちだった「状態」と述べていた。「しかし、日本の浮世絵師や作家は」と彼は書いた。「注目した……彼らは二重まぶたを穏やかなかわいらしさの象徴と見なしている。一重まぶたは女性を無愛想に見せるときもある」

 当時は最新のものだったこの手術に、アメリカの特派員たちによって人種的な意味がつけられた。

 1895年2月、名前は不明だが、「ロサンゼルス・タイムズ」紙のある特派員が日本の手術について書いた。先駆者的な医師の名はあげずに、「小さな眼瞼形成術」と書いているが、当時、美甘が多数の患者に行なっていた手術のことだろう。

「文明化された世界で認めてもらおうと努力する中で、日本人は自分たちにとっての最大の障害が、蒙古系の祖先を持つという見間違いようのないしるしだと気がついた」。

 さらに特派員はこう続けている。

「蒙古系の民族に対する偏見は明白である」ため、日本人は蒙古系の遺産の「証拠」と「呪い」を隠すためにその手術を適用した、と。

戦闘で損なわれた兵士の外見を
修復するために必要な手術だった

 その手術法が実際に普及したのは50年経ってふたつの世界大戦を経験し、朝鮮戦争が終結してからだった。韓国に駐留していたアメリカ人の外科医が手術法を編み出したときのことだ。

 整形手術が盛んになった理由の多くが戦争と結びついていることは間違いない。

 それは戦闘によって損なわれた外見を修復する方法として始まった。

 第2次世界大戦中と戦後にアメリカ軍とヨーロッパ軍がアジアの国々にいたのは、これらの地域で整形手術がもっと一般的になる最大の要因だった(その時期にアメリカとヨーロッパでも整形手術が増加した)。

 ジョン・ディモア(編集部注:ソウル国立大学の韓国史准教授)は著書の『Reconstructing Bodies』に、「手術そのものよりもさらに重要なのは、手術が行なわれた戦後の状況であり、医療援助は善意の現れの証拠として行なわれることが多かった」と書いている。

 その後、外科の傾向は体の復元から美容整形へと拡大していき、今日ではそれが形成外科分野で多数を占めている。