東アジアで最も求められた顔は
女優メグ・ライアンではない
韓国形成外科学会は1966年に設立された。
初期の外科医は訓練や医学面での交流をアメリカに頼っていた。20世紀後半、韓国が急速に発展すると、美の理想の一部はアメリカやヨーロッパとの文化的な交流の影響を受け、ハリウッドを通じて広まった情報も多かった。
初期の外科診療もアメリカの影響をおおいに受けた。韓国の施術者は技術や手術について西洋のテキストから学んでいたのだ。
1970年代と80年代のそういう技術は「西洋の」特徴を指すかもしれないが、韓国美学の研究者ジョアンナ・エルフヴィング=ウォンはこう書いている。
「初期の外科診療が西洋の技術の影響を多大に受けているとしても、体から『人種的特徴を除去』したいと韓国が明確に望んでいるという結論を引き出せるほど、現代の状況は単純ではない」。
つまり、「西洋の」特徴を作る時代は、限られた間しか続かなかったということだ。今日でも西洋の特徴が続いていると言うのは、近頃、髪を短くしている誰もが、1970年代のドロシー・ハミル(編集部注:アメリカのフィギュアスケート選手)の真似をしていると言うのと同様だろう。
医師や患者自身は「西洋」風の外見にしてほしいという要望を聞いたことも、出したこともないと語っている。
とはいえ、韓国人が目を「西洋化」したという植民地主義者的な概念は根強く残っている。
一重まぶたの東アジア人がもっと局地的な何か、ほかの東アジア人の顔の特徴を求めているだけかもしれないという考えは、太平洋の向こう側に伝えられなかった。
1990年代、韓国の形成外科産業の成長が「ウォール・ストリート・ジャーナル」紙や「ロサンゼルス・タイムズ」紙のようなアメリカのメディアに注目されたとき、記者たちはふたたび植民地主義的な推測をして、韓国が西洋化を決意したといった記事を掲載した。
実際には、1990年代に形成外科業界の拡大を駆り立てた二重まぶたの魅力は、わたしが絶えず耳にした、標準中国語を話す移民の間で人気が高かった中国人の女優のラウ・シュッワーのような、近くの国の影響を受けていた。
また、韓国にはメディアが理想の韓国美人と1980年代に呼んだ、映画スターのファン・シネがいる。
東アジアで最も求められた顔はメグ・ライアン(編集部注:アメリカの女優)ではなく、二重まぶたのファン・シネのものだったのだ。