深澤 献

ダイヤモンド編集部論説委員

ふかさわ・けん/広島県出身。1989年ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」でソフトウェア、流通・小売り、通信・IT業界などの 担当記者を経て、2002年10月より副編集長。16年4月よりダイヤモンド・オンライン(DOL)編集長。17年4月よりDOL編集長との兼任で週刊ダイヤモンド編集長。19年4月よりデジタルメディア開発部長兼ダイヤモンド論説委員。2022年2月~24年2月まで株式会社TBMに転じた後、24年4月より週刊ダイヤモンド事業室編集委員。著書に「そごう 壊れた百貨店」「沸騰する中国」(いずれもダイヤモンド社刊・共著)など。趣味はマラソン。

第42回
ソニー盛田昭夫が60年代に説いた、国際競争に勝てる経営者の条件
ダイヤモンド編集部,深澤 献
「元祖グローバル企業」を創り上げた、ソニー盛田副社長の1967年のインタビュー。「日本の経営者は国際レベルか」という特集内で掲載されたものだ。
ソニー盛田昭夫が60年代に説いた、国際競争に勝てる経営者の条件
第31回
多様性あふれる環境が育んだ、“見えない存在とされた人”と関わっていく生き方/渡部カンコロンゴ清花・NPO法人WELgee代表
ダイヤモンド編集部,深澤 献
社会課題に果敢に向き合う若きリーダーの情熱と使命感は、どのように育まれてきたのか。今回は、日本に住む“難民”が、この地で第二の人生を歩むための環境づくりに挑むNPO法人WELgee(ウェルジー)の渡部カンコロンゴ清花代表。類いまれな行動力とコミュニケーション能力の秘密は、少女時代の多様性あふれる環境にありました。
多様性あふれる環境が育んだ、“見えない存在とされた人”と関わっていく生き方/渡部カンコロンゴ清花・NPO法人WELgee代表
第41回
興銀・中山素平、日産・川又克二、2人の“中興の祖”が語り合った経営観(下)
ダイヤモンド編集部,深澤 献
前編に続いて、日本興業銀行頭取の中山素平と、日産自動車社長の川又克二の対談記事をお届けする。
興銀・中山素平、日産・川又克二、2人の“中興の祖”が語り合った経営観(下)
第40回
興銀・中山素平、日産・川又克二、2人の“中興の祖”が語り合った経営観(上)
ダイヤモンド編集部,深澤 献
1965年1月4日号、新春企画として掲載された、日本興業銀行(現みずほ銀行)頭取の中山素平、日産自動車社長の川又克二の対談記事である。この2人は、29年に旧制東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、日本興業銀行に入行した同窓同期という仲だ。
興銀・中山素平、日産・川又克二、2人の“中興の祖”が語り合った経営観(上)
第30回
仕事とは学びの過程、大学で受講した「起業論」が“普通の子”の価値観を一変させた/冨田侑希・dot代表
ダイヤモンド編集部,深澤 献
自らの力で社会を変えたい──そんな情熱や使命感を抱いて活躍する若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられ、どう育ってきたのか。今回は、「Z世代」の価値観・視点を生かした学生発イノベーションのプロジェクトを次々に立ち上げるdot代表の冨田侑希さんです。全ての始まりは学習院大学での「起業論」の授業でした。
仕事とは学びの過程、大学で受講した「起業論」が“普通の子”の価値観を一変させた/冨田侑希・dot代表
第39回
高橋是清が回顧した“命の恩人”日銀総裁・川田小一郎の言葉
ダイヤモンド編集部,深澤 献
大正から昭和初期にかけて大蔵大臣を7度経験し、大胆な財政政策で日本の経済危機を何度も救ってきた高橋是清。その高橋のインタビューが「ダイヤモンド」誌の1930年12月21日号に掲載されていた。インタビューのテーマは「僕の感心した人物」。高橋は第3代日本銀行総裁だった川田小一郎との思い出を披露している。
高橋是清が回顧した“命の恩人”日銀総裁・川田小一郎の言葉
第38回
「週休3日制」を1986年に導入、堀場雅夫が問い掛けた真の豊かさ
ダイヤモンド編集部,深澤 献
堀場雅夫は、京都大学理学部物理学科在学中の1945年10月に堀場無線研究所(現堀場製作所)を創業した。今でいう学生ベンチャーの元祖だ。53歳で会長に退いた後、社是を「おもしろおかしく」と定め、1986年には週休3日制を導入した。
「週休3日制」を1986年に導入、堀場雅夫が問い掛けた真の豊かさ
第29回
小5で「もう勉強しない」と宣言した開業医の長男が「新しい働き方」で起業するまで/中川祥太・キャスターCEO
ダイヤモンド編集部,深澤 献
人と違うことをやる。リスクを取ってでも新しい道を行く──。イノベーターとして活躍する若きリーダーたちは、どう育ってきたのか。今回は、秘書や経理など会社の管理部門の業務をリモートワーク(在宅勤務)で請け負うサービスを展開し、「労働革命で人を自由に」を旗印に新しい働き方を提案するキャスターの中川祥太さんです。
小5で「もう勉強しない」と宣言した開業医の長男が「新しい働き方」で起業するまで/中川祥太・キャスターCEO
第37回
サントリー佐治敬三がビール参入の翌年に語った、親子2代の“悲願”
ダイヤモンド編集部,深澤 献
1899年に創業者の鳥井信治郎が大阪市でワインの製造販売を始めたのがサントリーの始まりである。1907年に「赤玉ポートワイン」、37年に国産ウイスキー「サントリー角瓶」を世に出し、洋酒メーカーとしての地位を築いた。
サントリー佐治敬三がビール参入の翌年に語った、親子2代の“悲願”
第36回
松下幸之助がある宗教団体の隆盛ぶりから学んだ「経営の本質」
ダイヤモンド編集部,深澤 献
1963年9月10日号に掲載された、松下電器産業(現パナソニック)の創業者、松下幸之助(1894年11月27日~1989年4月27日)の手記である。今回の手記は、「名ある経営者が語る“私の経営哲学”」なる企画に寄せられたもの。幸之助の経営哲学はさまざまなかたちで世に出ているが、端的にその要諦と、そう考えるに至った経緯がまとめられている。
松下幸之助がある宗教団体の隆盛ぶりから学んだ「経営の本質」
第28回
辛い思い出を残すのでなく療養生活や小児医療の現場に「青春時代」を届けたい/北野華子・NPO法人Being ALIVE Japan理事長
ダイヤモンド編集部,深澤 献
自分にしかできないことがある、自分ならできる──そんな情熱や使命感を抱いて活躍する若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられているのか。今回は、難病などで長期療養生活を送る子供向けのスポーツ体験を提供するNPO法人Being ALIVE Japanを運営する北野華子さん。自身も15年間にわたる療養生活を経験しています。
辛い思い出を残すのでなく療養生活や小児医療の現場に「青春時代」を届けたい/北野華子・NPO法人Being ALIVE Japan理事長
第35回
キッコーマン社長が半世紀前、自信満々に語った「醤油の海外輸出」の可能性
ダイヤモンド編集部,深澤 献
キッコーマンの醤油が初めて米国に渡ったのは、1868(明治元)年の第1回ハワイ移民船に積み込まれたときまでさかのぼる。その後は、米国のみならず、中国大陸や東南アジアに日本人が進出するのに伴い、日系人や在留邦人向けに醤油が輸出された。今回紹介するのは、1966年11月28日号に掲載された茂木啓三郎(1899年8月5日~1993年8月16日)のインタビューだ。
キッコーマン社長が半世紀前、自信満々に語った「醤油の海外輸出」の可能性
第34回
正力松太郎が自ら語った全国テレビ放送網構想、その“対米従属的”内容
ダイヤモンド編集部,深澤 献
“日テレ”こと「日本テレビ放送網」。実はこの社名は、壮大な思いを込めて付けられたものだった。その名の通り、設立当初は「日本全国をカバーするテレビ放送網」を目指していたのである。「週刊ダイヤモンド」1951年9月15日号に掲載された、読売新聞社社主で日本テレビの初代社長である正力松太郎(1885年4月11日~1969年10月9日)による「俺はテレビジョンをやる」と題された談話記事には、その熱い思いが開陳されている。
正力松太郎が自ら語った全国テレビ放送網構想、その“対米従属的”内容
第27回
不登校を経て考えた人生の意味、人の孤独を解消するためにテクノロジーで“居場所”を作る/吉藤オリィ・オリィ研究所代表取締役CEO
ダイヤモンド編集部,深澤 献
世の中を変えたい──。そんな情熱や使命感を抱いて活躍する若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられ、どう育ってきたのか。今回は、小中学校時代に3年半の不登校を経て、「テクノロジーを用いて、人の孤独を解消する」ことを使命とし、遠隔操作型ロボットの開発などを行うオリィ研究所の吉藤オリィ(本名・健太朗)さんです。
不登校を経て考えた人生の意味、人の孤独を解消するためにテクノロジーで“居場所”を作る/吉藤オリィ・オリィ研究所代表取締役CEO
第33回
50年前の本誌新年号が掲げた、世界に誇る日本の強み「平和と繁栄、そして若さ」
ダイヤモンド編集部,深澤 献
今回は50年前、1970年の「週刊ダイヤモンド」の新年号を引っ張り出してみた。雑誌の冒頭に「社説」欄があり、「70年代の世界は日本のバイタリティがリードする」とのタイトルが付いている。60年代の高度成長を経て、70年代はさらに明るい時代が来るという、夢に溢れた論調である。
50年前の本誌新年号が掲げた、世界に誇る日本の強み「平和と繁栄、そして若さ」
第32回
ドラッカーが1993年に予言「これは不況ではない。20年は続く“変革の時”」
ダイヤモンド編集部,深澤 献
今から30年前となる1989年12月29日。日経平均は史上最高値を付けた後、日本経済は長い停滞の期間を経て、現在に至る。バブルの絶頂から30年後の世界に暮らすわれわれは、その経緯を全て知っているが、当時、トンネルの出口がそんなに先であることを予見できた人物はどれだけいるだろうか。
ドラッカーが1993年に予言「これは不況ではない。20年は続く“変革の時”」
第31回
渋沢栄一の玄関番から「製紙王」へ、大川平三郎が自ら語った立志伝(下)
ダイヤモンド編集部,深澤 献
3回にわたってお届けしている、大川平三郎のロングインタビュー。「下」は、渋沢栄一と共に王子製紙を去ってからの話が中心となる。
渋沢栄一の玄関番から「製紙王」へ、大川平三郎が自ら語った立志伝(下)
第30回
渋沢栄一の玄関番から「製紙王」へ、大川平三郎が自ら語った立志伝(中)
ダイヤモンド編集部,深澤 献
前回に引き続き、「日本の製紙王」と呼ばれた大川平三郎のロングインタビューである。3回にわたるインタビューの「中」では、実業家としての別の側面を垣間見ることができる。 本人の言葉で生々しく語られる、製紙業以外の“サブストーリー”も豪華で面白い。
渋沢栄一の玄関番から「製紙王」へ、大川平三郎が自ら語った立志伝(中)
第26回
「好き」を仕事にするのではなく怒りを原動力にして、世の中をましにして死にたい/酒向萌実・GoodMorning社長
ダイヤモンド編集部,深澤 献
人とは違う何かに挑戦し、時代を変えようとする若きイノベーターたちは、どう育ってきて、どんな原体験が今を支えているのか。今回は、クラウドファンディングサイトを運営するCAMPFIREの家入一真代表から、社会課題の解決に挑む事業に特化した子会社GoodMorningの社長に、25歳にして抜てきされた酒向萌実さんです。
「好き」を仕事にするのではなく怒りを原動力にして、世の中をましにして死にたい/酒向萌実・GoodMorning社長
第29回
渋沢栄一の玄関番から「製紙王」へ、大川平三郎が自ら語った立志伝(上)
ダイヤモンド編集部,深澤 献
日本の近代産業史上で、「製紙王」と呼ばれる大川平三郎(1860年12月7日~1936年12月30日)は、13歳で親戚に当たる渋沢栄一に玄関番(書生)として仕え、王子製紙の前身である製紙会社「抄紙会社」の職工として腕を磨いた。後に富士製紙や樺太工業をはじめとする数々の製紙会社を経営し、一時は国内シェアの45%を握った。
渋沢栄一の玄関番から「製紙王」へ、大川平三郎が自ら語った立志伝(上)
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