深澤 献

ダイヤモンド編集部論説委員

ふかさわ・けん/広島県出身。1989年ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」でソフトウェア、流通・小売り、通信・IT業界などの 担当記者を経て、2002年10月より副編集長。16年4月よりダイヤモンド・オンライン(DOL)編集長。17年4月よりDOL編集長との兼任で週刊ダイヤモンド編集長。19年4月よりデジタルメディア開発部長兼ダイヤモンド論説委員。2022年2月~24年2月まで株式会社TBMに転じた後、24年4月より週刊ダイヤモンド事業室編集委員。著書に「そごう 壊れた百貨店」「沸騰する中国」(いずれもダイヤモンド社刊・共著)など。趣味はマラソン。

第28回
辛い思い出を残すのでなく療養生活や小児医療の現場に「青春時代」を届けたい/北野華子・NPO法人Being ALIVE Japan理事長
ダイヤモンド編集部,深澤 献
自分にしかできないことがある、自分ならできる──そんな情熱や使命感を抱いて活躍する若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられているのか。今回は、難病などで長期療養生活を送る子供向けのスポーツ体験を提供するNPO法人Being ALIVE Japanを運営する北野華子さん。自身も15年間にわたる療養生活を経験しています。
辛い思い出を残すのでなく療養生活や小児医療の現場に「青春時代」を届けたい/北野華子・NPO法人Being ALIVE Japan理事長
第35回
キッコーマン社長が半世紀前、自信満々に語った「醤油の海外輸出」の可能性
ダイヤモンド編集部,深澤 献
キッコーマンの醤油が初めて米国に渡ったのは、1868(明治元)年の第1回ハワイ移民船に積み込まれたときまでさかのぼる。その後は、米国のみならず、中国大陸や東南アジアに日本人が進出するのに伴い、日系人や在留邦人向けに醤油が輸出された。今回紹介するのは、1966年11月28日号に掲載された茂木啓三郎(1899年8月5日~1993年8月16日)のインタビューだ。
キッコーマン社長が半世紀前、自信満々に語った「醤油の海外輸出」の可能性
第34回
正力松太郎が自ら語った全国テレビ放送網構想、その“対米従属的”内容
ダイヤモンド編集部,深澤 献
“日テレ”こと「日本テレビ放送網」。実はこの社名は、壮大な思いを込めて付けられたものだった。その名の通り、設立当初は「日本全国をカバーするテレビ放送網」を目指していたのである。「週刊ダイヤモンド」1951年9月15日号に掲載された、読売新聞社社主で日本テレビの初代社長である正力松太郎(1885年4月11日~1969年10月9日)による「俺はテレビジョンをやる」と題された談話記事には、その熱い思いが開陳されている。
正力松太郎が自ら語った全国テレビ放送網構想、その“対米従属的”内容
第27回
不登校を経て考えた人生の意味、人の孤独を解消するためにテクノロジーで“居場所”を作る/吉藤オリィ・オリィ研究所代表取締役CEO
ダイヤモンド編集部,深澤 献
世の中を変えたい──。そんな情熱や使命感を抱いて活躍する若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられ、どう育ってきたのか。今回は、小中学校時代に3年半の不登校を経て、「テクノロジーを用いて、人の孤独を解消する」ことを使命とし、遠隔操作型ロボットの開発などを行うオリィ研究所の吉藤オリィ(本名・健太朗)さんです。
不登校を経て考えた人生の意味、人の孤独を解消するためにテクノロジーで“居場所”を作る/吉藤オリィ・オリィ研究所代表取締役CEO
第33回
50年前の本誌新年号が掲げた、世界に誇る日本の強み「平和と繁栄、そして若さ」
ダイヤモンド編集部,深澤 献
今回は50年前、1970年の「週刊ダイヤモンド」の新年号を引っ張り出してみた。雑誌の冒頭に「社説」欄があり、「70年代の世界は日本のバイタリティがリードする」とのタイトルが付いている。60年代の高度成長を経て、70年代はさらに明るい時代が来るという、夢に溢れた論調である。
50年前の本誌新年号が掲げた、世界に誇る日本の強み「平和と繁栄、そして若さ」
第32回
ドラッカーが1993年に予言「これは不況ではない。20年は続く“変革の時”」
ダイヤモンド編集部,深澤 献
今から30年前となる1989年12月29日。日経平均は史上最高値を付けた後、日本経済は長い停滞の期間を経て、現在に至る。バブルの絶頂から30年後の世界に暮らすわれわれは、その経緯を全て知っているが、当時、トンネルの出口がそんなに先であることを予見できた人物はどれだけいるだろうか。
ドラッカーが1993年に予言「これは不況ではない。20年は続く“変革の時”」
第31回
渋沢栄一の玄関番から「製紙王」へ、大川平三郎が自ら語った立志伝(下)
ダイヤモンド編集部,深澤 献
3回にわたってお届けしている、大川平三郎のロングインタビュー。「下」は、渋沢栄一と共に王子製紙を去ってからの話が中心となる。
渋沢栄一の玄関番から「製紙王」へ、大川平三郎が自ら語った立志伝(下)
第30回
渋沢栄一の玄関番から「製紙王」へ、大川平三郎が自ら語った立志伝(中)
ダイヤモンド編集部,深澤 献
前回に引き続き、「日本の製紙王」と呼ばれた大川平三郎のロングインタビューである。3回にわたるインタビューの「中」では、実業家としての別の側面を垣間見ることができる。 本人の言葉で生々しく語られる、製紙業以外の“サブストーリー”も豪華で面白い。
渋沢栄一の玄関番から「製紙王」へ、大川平三郎が自ら語った立志伝(中)
第26回
「好き」を仕事にするのではなく怒りを原動力にして、世の中をましにして死にたい/酒向萌実・GoodMorning社長
ダイヤモンド編集部,深澤 献
人とは違う何かに挑戦し、時代を変えようとする若きイノベーターたちは、どう育ってきて、どんな原体験が今を支えているのか。今回は、クラウドファンディングサイトを運営するCAMPFIREの家入一真代表から、社会課題の解決に挑む事業に特化した子会社GoodMorningの社長に、25歳にして抜てきされた酒向萌実さんです。
「好き」を仕事にするのではなく怒りを原動力にして、世の中をましにして死にたい/酒向萌実・GoodMorning社長
第29回
渋沢栄一の玄関番から「製紙王」へ、大川平三郎が自ら語った立志伝(上)
ダイヤモンド編集部,深澤 献
日本の近代産業史上で、「製紙王」と呼ばれる大川平三郎(1860年12月7日~1936年12月30日)は、13歳で親戚に当たる渋沢栄一に玄関番(書生)として仕え、王子製紙の前身である製紙会社「抄紙会社」の職工として腕を磨いた。後に富士製紙や樺太工業をはじめとする数々の製紙会社を経営し、一時は国内シェアの45%を握った。
渋沢栄一の玄関番から「製紙王」へ、大川平三郎が自ら語った立志伝(上)
第28回
大塚グループ総帥・大塚正士が、定価10万円の大著で綴った「実証人生」
ダイヤモンド編集部,深澤 献
広大な「入浜式塩田」で有名な徳島県鳴門市はかつて、製塩業と共にその副産物である“にがり”をもとにした、医薬品原料となる炭酸マグネシウムなど化学品の生産も地場産業だった。1921年、大塚武三郎が創業した大塚製薬工場もそうした町工場の一つである。
大塚グループ総帥・大塚正士が、定価10万円の大著で綴った「実証人生」
第25回
仲間と大きなことをやり遂げる。そんな人生でありたいと心の底から思ってきた/倉富佑也・ココン社長
ダイヤモンド編集部,深澤 献
人と違うことをやる。リスクを取ってでも新しい道を行く──。イノベーターとして活躍する若きリーダーたちは、どう育ってきたのか。今回は、幼少期から経営者を志し、大学時代にクラウドソーシングで起業した後、積極的なM&A戦略でサイバーセキュリティー領域にまで業容を広げるココンの倉富佑也さんです。
仲間と大きなことをやり遂げる。そんな人生でありたいと心の底から思ってきた/倉富佑也・ココン社長
第27回
根津、五島、堤…私鉄の2代目3人の本音「先代と共に殉死してほしかった人」(下)
ダイヤモンド編集部,深澤 献
前回に続き、1964年7月10日号掲載の「“2代目3人男”の哀歓」という記事を紹介する。東武鉄道、東急電鉄、西武鉄道という関東の大手私鉄グループの2代目である、根津嘉一郎(二代目)、五島昇、堤清二の3人が一堂に会した異色の座談会である。
根津、五島、堤…私鉄の2代目3人の本音「先代と共に殉死してほしかった人」(下)
第26回
根津、五島、堤…私鉄の御曹司3人が語り合った「2代目はつらいよ」(上)
ダイヤモンド編集部,深澤 献
昨今、中小企業の深刻な後継者不足が話題にのぼることが多い。その背景には、1960年代の高度成長期に20~30代で創業した経営者世代が、一斉に引退時期へ差し掛かっているという流れがある。今回紹介する「“2代目3人男”の哀歓」と題された座談会は、大手私鉄グループの2代目という同じ境遇の経営者3人が一堂に会した異色の記事である。
根津、五島、堤…私鉄の御曹司3人が語り合った「2代目はつらいよ」(上)
第24回
好きな分野で“プレーヤー”になりたいという気持ちを後押ししてやりたい/水野雄介・ライフイズテック代表
ダイヤモンド編集部,深澤 献
社会を変えたい、自分にしかできないことがある――そんな情熱や使命感を抱いて活躍する若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられ、どう育ってきたのか。今回は、中学生や高校生向けにプログラミングや、ITが学べるスクールやキャンプなどの教育サービスを展開するライフイズテック(Life is Tech!)の水野雄介さんです。
好きな分野で“プレーヤー”になりたいという気持ちを後押ししてやりたい/水野雄介・ライフイズテック代表
第25回
金持ちは人類全体に悪影響を与える――日産コンツェルン総裁・鮎川義介の生涯(下)
ダイヤモンド編集部,深澤 献
前回にも紹介した通り、鮎川義介は東大を卒業して社会に出るという時に、「終生富豪となることなしに、天職に精進しよう」という誓いを立て、輝かしい出自や学歴を隠して、日給48円の職工としてキャリアをスタートさせる。
金持ちは人類全体に悪影響を与える――日産コンツェルン総裁・鮎川義介の生涯(下)
第24回
東大卒を隠して見習い工から出発――日産コンツェルン総帥・鮎川義介の生涯(上)
ダイヤモンド編集部,深澤 献
日産コンツェルンの創始者である鮎川義介は、1903年に東京帝国大学の工科大学(現東京大学工学部)の機械科を卒業する際、人生設計を立てた。そのときに誓ったのが、「終生富豪となることなしに、天職に精進しよう」だったという。
東大卒を隠して見習い工から出発――日産コンツェルン総帥・鮎川義介の生涯(上)
第23回
どんなことであれ突き抜けていくと本質が見えてくる/北川 烈・スマートドライブ代表
ダイヤモンド編集部,深澤 献
人と違うことをやる、リスクを取ってでも新しい道を行く――。イノベーターとして活躍する若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられ、どう育ってきたのか。今回は自動車などの走行データを収集・解析することで、移動に関するさまざまなサービスに活用し、「移動の進化を後押しする」ことを目指すスマートドライブの代表、北川烈さんです。
どんなことであれ突き抜けていくと本質が見えてくる/北川 烈・スマートドライブ代表
第23回
コンピューターの時代という「予兆」を捉えたCSK大川功
ダイヤモンド編集部,深澤 献
CSK(現SCSK)の創業者、大川功(1926年5月19日~2001年3月16日)は、日本の情報産業の黎明期を支え、ベンチャー支援にも力を注いた人物である。ベンチャー投資においては気前のいい“大旦那”の名をほしいままにした大川だったが、経営に関しては一貫して「不動産には手を出さない」という慎重な姿勢を貫いた。
コンピューターの時代という「予兆」を捉えたCSK大川功
第22回
富士ゼロックス・小林陽太郎が訴えた「不況脱出の鍵はベンチャー企業」
ダイヤモンド編集部,深澤 献
経済界きっての「国際派論客」といえば、といえば、小林陽太郎(1933年4月25日~2015年9月5日)の名を上げる人は多いだろう。1978年に44歳の若さで富士ゼロックス社長に就任。99年4月には、外資系企業トップとしては初めて経済同友会の代表幹事に就任したが、就任の挨拶で、「市場主義だけで新しい時代の日本を築けるのか」と、経営者らしからぬ問題提起をして注目を浴びた。
富士ゼロックス・小林陽太郎が訴えた「不況脱出の鍵はベンチャー企業」
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