深澤 献
第28回
自分にしかできないことがある、自分ならできる──そんな情熱や使命感を抱いて活躍する若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられているのか。今回は、難病などで長期療養生活を送る子供向けのスポーツ体験を提供するNPO法人Being ALIVE Japanを運営する北野華子さん。自身も15年間にわたる療養生活を経験しています。

第35回
キッコーマンの醤油が初めて米国に渡ったのは、1868(明治元)年の第1回ハワイ移民船に積み込まれたときまでさかのぼる。その後は、米国のみならず、中国大陸や東南アジアに日本人が進出するのに伴い、日系人や在留邦人向けに醤油が輸出された。今回紹介するのは、1966年11月28日号に掲載された茂木啓三郎(1899年8月5日~1993年8月16日)のインタビューだ。

第34回
“日テレ”こと「日本テレビ放送網」。実はこの社名は、壮大な思いを込めて付けられたものだった。その名の通り、設立当初は「日本全国をカバーするテレビ放送網」を目指していたのである。「週刊ダイヤモンド」1951年9月15日号に掲載された、読売新聞社社主で日本テレビの初代社長である正力松太郎(1885年4月11日~1969年10月9日)による「俺はテレビジョンをやる」と題された談話記事には、その熱い思いが開陳されている。

第27回
世の中を変えたい──。そんな情熱や使命感を抱いて活躍する若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられ、どう育ってきたのか。今回は、小中学校時代に3年半の不登校を経て、「テクノロジーを用いて、人の孤独を解消する」ことを使命とし、遠隔操作型ロボットの開発などを行うオリィ研究所の吉藤オリィ(本名・健太朗)さんです。

第33回
今回は50年前、1970年の「週刊ダイヤモンド」の新年号を引っ張り出してみた。雑誌の冒頭に「社説」欄があり、「70年代の世界は日本のバイタリティがリードする」とのタイトルが付いている。60年代の高度成長を経て、70年代はさらに明るい時代が来るという、夢に溢れた論調である。

第32回
今から30年前となる1989年12月29日。日経平均は史上最高値を付けた後、日本経済は長い停滞の期間を経て、現在に至る。バブルの絶頂から30年後の世界に暮らすわれわれは、その経緯を全て知っているが、当時、トンネルの出口がそんなに先であることを予見できた人物はどれだけいるだろうか。

第31回
3回にわたってお届けしている、大川平三郎のロングインタビュー。「下」は、渋沢栄一と共に王子製紙を去ってからの話が中心となる。

第30回
前回に引き続き、「日本の製紙王」と呼ばれた大川平三郎のロングインタビューである。3回にわたるインタビューの「中」では、実業家としての別の側面を垣間見ることができる。 本人の言葉で生々しく語られる、製紙業以外の“サブストーリー”も豪華で面白い。

第26回
人とは違う何かに挑戦し、時代を変えようとする若きイノベーターたちは、どう育ってきて、どんな原体験が今を支えているのか。今回は、クラウドファンディングサイトを運営するCAMPFIREの家入一真代表から、社会課題の解決に挑む事業に特化した子会社GoodMorningの社長に、25歳にして抜てきされた酒向萌実さんです。

第29回
日本の近代産業史上で、「製紙王」と呼ばれる大川平三郎(1860年12月7日~1936年12月30日)は、13歳で親戚に当たる渋沢栄一に玄関番(書生)として仕え、王子製紙の前身である製紙会社「抄紙会社」の職工として腕を磨いた。後に富士製紙や樺太工業をはじめとする数々の製紙会社を経営し、一時は国内シェアの45%を握った。

第28回
広大な「入浜式塩田」で有名な徳島県鳴門市はかつて、製塩業と共にその副産物である“にがり”をもとにした、医薬品原料となる炭酸マグネシウムなど化学品の生産も地場産業だった。1921年、大塚武三郎が創業した大塚製薬工場もそうした町工場の一つである。

第25回
人と違うことをやる。リスクを取ってでも新しい道を行く──。イノベーターとして活躍する若きリーダーたちは、どう育ってきたのか。今回は、幼少期から経営者を志し、大学時代にクラウドソーシングで起業した後、積極的なM&A戦略でサイバーセキュリティー領域にまで業容を広げるココンの倉富佑也さんです。

第27回
前回に続き、1964年7月10日号掲載の「“2代目3人男”の哀歓」という記事を紹介する。東武鉄道、東急電鉄、西武鉄道という関東の大手私鉄グループの2代目である、根津嘉一郎(二代目)、五島昇、堤清二の3人が一堂に会した異色の座談会である。

第26回
昨今、中小企業の深刻な後継者不足が話題にのぼることが多い。その背景には、1960年代の高度成長期に20~30代で創業した経営者世代が、一斉に引退時期へ差し掛かっているという流れがある。今回紹介する「“2代目3人男”の哀歓」と題された座談会は、大手私鉄グループの2代目という同じ境遇の経営者3人が一堂に会した異色の記事である。

第24回
社会を変えたい、自分にしかできないことがある――そんな情熱や使命感を抱いて活躍する若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられ、どう育ってきたのか。今回は、中学生や高校生向けにプログラミングや、ITが学べるスクールやキャンプなどの教育サービスを展開するライフイズテック(Life is Tech!)の水野雄介さんです。

第25回
前回にも紹介した通り、鮎川義介は東大を卒業して社会に出るという時に、「終生富豪となることなしに、天職に精進しよう」という誓いを立て、輝かしい出自や学歴を隠して、日給48円の職工としてキャリアをスタートさせる。

第24回
日産コンツェルンの創始者である鮎川義介は、1903年に東京帝国大学の工科大学(現東京大学工学部)の機械科を卒業する際、人生設計を立てた。そのときに誓ったのが、「終生富豪となることなしに、天職に精進しよう」だったという。

第23回
人と違うことをやる、リスクを取ってでも新しい道を行く――。イノベーターとして活躍する若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられ、どう育ってきたのか。今回は自動車などの走行データを収集・解析することで、移動に関するさまざまなサービスに活用し、「移動の進化を後押しする」ことを目指すスマートドライブの代表、北川烈さんです。

第23回
CSK(現SCSK)の創業者、大川功(1926年5月19日~2001年3月16日)は、日本の情報産業の黎明期を支え、ベンチャー支援にも力を注いた人物である。ベンチャー投資においては気前のいい“大旦那”の名をほしいままにした大川だったが、経営に関しては一貫して「不動産には手を出さない」という慎重な姿勢を貫いた。

第22回
経済界きっての「国際派論客」といえば、といえば、小林陽太郎(1933年4月25日~2015年9月5日)の名を上げる人は多いだろう。1978年に44歳の若さで富士ゼロックス社長に就任。99年4月には、外資系企業トップとしては初めて経済同友会の代表幹事に就任したが、就任の挨拶で、「市場主義だけで新しい時代の日本を築けるのか」と、経営者らしからぬ問題提起をして注目を浴びた。
