深澤 献
第57回
三井不動産の社長を1974年から87年の13年間、その後会長を9年間務めた坪井東(1915年5月1日~1996年7月5日)。在任中は、東京・新宿の新宿三井ビルディングの竣工や、東京ディズニーランドの開園事業に携わった人物だ。「週刊ダイヤモンド」1977年7月30日号では、当時丸の内にあった東京都庁を新宿に移転せよと提案していた。

第37回
世の中を変えたい、リスクを恐れず人と違うことに挑戦したい――。そんな情熱や使命感を抱く若きリーダーたちは、何を原体験に、どう育ってきたのか。今回は、2014年にビットコインと出合い、ブロックチェーンや暗号資産(仮想通貨)を使って、格差や既得権益の破壊に挑むGincoの森川夢佑斗(むうと)さんです。

第56回
「週刊ダイヤモンド」1991年11月5日号から掲載された、「バブルの教訓・ニッポンの再出発」と第されたインタビューシリーズの第1回は、ソニーの会長で、当時は経団連副会長も務めていた盛田昭夫(1921年1月26日~1999年10月3日))だった。

第55回
明石照男(1881年3月30日~1956年9月29日)は、第一銀行の頭取を務めた銀行家だ。もっとも、明石自身は起業家ではないし、経営者として特筆すべき功績を挙げたわけではないので、本連載でこれまでとりあげてきた人物と比べると知名度では劣るかもしれない。

第36回
誰もやっていないことに挑むイノベーターたちの動機と熱意は、どのように育まれてきたのか。今回は、東京大学と同大学院で天文学を専攻し、ゴールドマン・サックス証券を経て、“人工流れ星”というエンターテインメントとサイエンスの領域で民間宇宙事業に取り組むALE(エール)を設立した岡島礼奈さんです。

第54回
前回に続き、「相互会社の産みの親」と呼ばれた第一生命保険の創業者、矢野恒太(1866年1月18日~1951年9月23日)の回顧談である。

第53回
第一生命保険を創業し、「相互会社の産みの親」と呼ばれた矢野恒太(1866年1月18日~1951年9月23日)。矢野がこだわったのは、契約者が保険契約の当事者となると同時に、社員となって会社の運営にも当たることで契約者同士が相互扶助する、相互会社という形態だった。

第35回
周りとは違うことに取り組み、新しい価値観を生み出す。そんな若者たちの挑戦心は、いかにして育まれ、どんな原体験が今を支えているのか。今回は、平日は大手広告会社のサラリーマンとして激務をこなしながら、週末は世界を回るトラベラー。自ら「リーマントラベラー」と名乗る東松寛文さんです。

第52回
輸入車販売のヤナセは、三井物産機械部に勤務していた梁瀬長太郎が1914年に、同社からビュイック、キャデラックの輸入販売事業を引き継ぐ形で独立、東京・日比谷公園前に店舗と工場を構えたのが始まりだ。

第51回
1781年に、創業者の武田長兵衛が日本の薬種取引の中心地だった大阪・道修町で和漢薬の商売を始めたのが、武田薬品工業の始まりだ。その後、武田家の当主は代々、武田長兵衛の名を襲名してきた。今回紹介するのは、1951年9月15日号に掲載された6代目武田長兵衛(05年4月29日~80年9月1日)の談話記事である。

第50回
スズキは1981年8月、当時の世界トップメーカーだったGMと資本提携した。今回は、そのほぼ1年後に掲載された、3代目社長、鈴木修(1930年1月30日~)のインタビューを紹介しよう。

第34回
人と違う道を行き、世の中を変えていく──。そんな発想とモチベーションは、いかにして育つのか。今回は26歳でiPS細胞から「ミニ肝臓」の開発に成功し、東京医科歯科大学と横浜市立大学で史上最年少(31歳)で教授に就任した武部貴則さん。再生医療に加え、「広告医学」という新分野にも挑戦するマルチな才能を発揮する研究者です。

第49回
西武グループで不動産やホテル、観光事業を手がける国土計画(後にコクド)は、一方でグループの持株会社という役割を有していた。上場企業である西武鉄道や、プリンスホテルをはじめとする約70社の大株主として、国土計画は実質的に西武グループ全体を支配する構造を作り上げていた。そして、その国土開発のオーナーが創業家である堤家である。

第48回
椎名武雄(1929年5月11日〜)が45歳で日本IBMの社長に就任したのは75年。以来92年までの17年間の長きにわたり同社を率い、89〜93年は米IBMの副社長も兼務している。92年に会長に就任して以降は経団連や経済同友会の要職にも就き、IT戦略会議メンバーなども務めることで、日本における外資系企業の“地位”を向上させたことから「ミスター外資」との異名も取る。

第33回
人と違うことをやり、リスクを取ってでも新しい道を行こうとする若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられ、どのように育ってきたのか──。今回は、男性向けスキンケアという新たな市場に挑戦し、メンズコスメブランド「BULK HOMME」を展開するバルクオムの野口卓也さんです。両親共に有名な起業家という家庭に育ちました。

第46回
松下正治は、松下電器産業(現パナソニック)の創業者、松下幸之助の娘婿で、1940年に三井銀行(現三井住友銀行)から松下電器に入社した。その後の20年間は、監査役、取締役、副社長と将来の社長として規定のコースを歩み、61年に幸之助の後を継ぎ49歳で2代目社長に就任した。その正治が会長を務めていた93年に、終戦直後や高度成長期に松下電器が直面した“危機”について語っているインタビューがある。今回はそれを紹介する。

第32回
リスクを恐れず人と違うことに挑戦し、社会を変えたい──。そんな思いで活躍する若きイノベーターたちは、どう育ってきたのか。今回は、中学の終わりに地元、仙台で体験した東日本大震災を機に、食の安心・安全を自身のフィールドに定め、今は農産物の卸売業と小売業を手掛けるLiving Rootsの三浦大輝さんです。

第45回
福沢桃介(1868年8月13日~1938年2月15日)は、慶應義塾在学中に福沢諭吉の次女と結婚、福沢家の婿養子となった実業家だ。慶應卒業後に日露戦争後の株式相場で財を成し、その資金を元手として名古屋電燈の買収を皮切りに全国各地の電気事業に参入。ガスや電気鉄道、紡績、製鋼など多くの事業に携わった。

第44回
老舗百貨店の伊勢丹は、東京・湯島の呉服店に奉公していた初代小菅丹治が、1886年に東京・神田旅籠町で創業した伊勢屋丹治呉服店が発祥である。「帯と模様の伊勢丹」との評判を得た人気呉服店を、百貨店に進化させた“中興の祖”は2代目小菅丹治だ。

第43回
コンピュータ数値制御(CNC)装置や産業用ロボットで世界一のシェアを持つファナック。専務を2年、副社長を1年務めた後、3年後に社長に就任したのが、富士通の計算制御部長だった稲葉清右衛門(1925年3月5日~)である。一代で同社を世界トップ企業に育て上げたカリスマ経営者だ。
