(2008年8月、東京)

 メモ紙に書かれた住所だけを頼りに進むタクシーの後部座席で、隆嗣は暗澹たる嘆きを胸に疼かせていた。

 僅かな移動の途上、ウインカーを点けずに車線変更してくる車や、狭い道で進行を譲ってもらっても頭を下げるでもなく手を上げることもなくこちらを無視して離合して行くドライバーなどを見るにつけ、他者の目を気に掛けるという美徳を忘れ始めている今の日本人は、明らかに質が低下していると実感じた。これでは、中国人の交通マナーを低劣だと批難するのも憚られる。

「この辺りのはずですがねえ」

 初老の運転手は、そう言ってタクシーを停めた。メーターは4000円ほどであった。

 隆嗣は5000円札を差し出して車外へと降り立った。釣り銭を渡しそびれた運転手は、隆嗣の背中へ「どうも」と一言掛けただけで遠慮なく去って行った。

 隆嗣は地図を手に町並みを見回しながらアスファルトの上を歩いた。夕暮れが迫った時間になっても汗が滲む。

 その古い木造アパートは、すぐに見つかった。目指す部屋の前に立ち、古い型の小さな呼び鈴ボタンを押す。濁った電子音に応えて「はーい」とドアを開いたのは、慶子だった。思いがけない来訪者に驚いている。

「伊藤さん……どうしたんですか?」

「急にお邪魔して申し訳ない。話したいことがあって来たんだが……」

 そこへ、奥の部屋から父の洋介が顔を出した。

「お客さんかい?」

「上海の伊藤さんよ。ほら、幸一さんの会社の」

 戸惑った表情のまま、慶子は振り返って答えた。

「ああ、あの伊藤さんかい。わざわざこんな所までお越しいただいて申し訳ない。さあ上がっていただきなさい。狭苦しいところで申し訳ないが」