バウハウスの教育システムを
翻案した「構成教育」の誕生

 バウハウスは教育実践の場でありながら、新たな時代にふさわしいデザインを生み出す実験の場でもあった。何かを創作するとき、その仕組みや構造を把握し、本質を見極めて抜き出し、抽象化して応用することに重きを置いた。このような教育施設はこれまで存在しなかった。

 こうしたバウハウスの教育システムや取り組みは国際的に注目を浴び、さまざまな国籍の学生が集まっていた。日本でも1925年頃から雑誌などで紹介され、実際にバウハウスへ留学する者もいた。東京美術学校(現・東京藝術大学)の助教授であった水谷武彦(1898-1969年)、建築家の山脇巌(1898-1987年)と妻の山脇道子(1910-2000年)、ドイツ文学者の夫とともに渡欧した大野玉枝(1903-1987年)の4人である。彼らは帰国後、多くの教育機関に携わり、バウハウスの教育内容を日本に広めた。

バウハウス(4)右側の書籍は、当時の構成教育のバイブルであった川喜田煉七郎と武井勝雄による『構成教育大系』(1934年) Photo by HasegawaKoukou

 たとえば水谷は帰国後、東京美術学校の建築科でバウハウスの理念に基づいた授業を開設。図画や手工といった断片的な教育ではなく、人間の五感(視覚、触覚、聴覚、味覚、嗅覚)を基盤とした、領域区分を超えた総合的な構成に関する教育の重要性を説いた。

 これらに影響を受けた日本人の中で、バウハウスの教育システムを翻案し「構成教育」と名付け、戦前から戦後にかけて日本の教育に盛り込もうと考えた者たちがいた。建築家の川喜田煉七郎(1902-1975年)、小学校教員の武井勝雄(1898-1979年)と間所春(1899-1964年)らであり、彼らがけん引したのが「構成教育運動」と呼ばれるムーブメントである。

 バウハウスの教育システムに傾倒した川喜田は、独自の構成教育の理論を構築。1933年に「新建築工芸学院」を設立し、青年期以降の学習者を対象に実践を始めた。そしてそこに通っていた武井と間所が、川喜田から学んだ構成教育を小学校における自身の授業へ応用・実践した。

 彼らは日本の義務教育や高等教育にも構成教育を取り込むことを試み、それらは一つの大きな運動となったが、公教育を変えるという壁は高く、結果的にその運動はついえた。

「バウハウスは総合的な教育を目指していました。日本でこれを実践するため、当初は図画工作や美術といった教科に当てはめようとしましたが、モノの形状や構造、性質を知るためには理科や科学などさまざまな教科をまたぐため、日本の公教育のフレームにフィットしなかったのです」(東京ステーションギャラリー学芸員の成相肇氏)

 戦後、日本の公教育のシステムに寄せようとし、「バウハウスっぽく」デザインの具体的な技術を学ぶ「デザイン教育」という形に矮小化したが、当初、彼らが目指した構成教育の理念とは程遠いものであった。