民主主義はもともと
「村サイズ」だった
リップマンは、民主主義は、いわば誰もが自分の「身の回り」、半径3メートル以内での出来事について考えていられるような世界のルールであるという意味のことを書いている。
「ジェファーソンの時代(編集部注:ジェファーソンが執筆者のひとりだったアメリカ独立宣言は1776年、ざっと250年ほど前である)には、自発的で主観的でない世論など、誰にも考えられなかった。民主主義の福音はそうした宿命によって固められたのである。だから民主主義は伝統的に、人びとが居住地域内で一切の因果関係がおさまるような事例としか関わりを持たないような世界を相手にしようとする。」(ウォルター・リップマン『世論』。以下「」による引用はすべて同様)
「もし民主主義が自発的に行われるようにしようとすれば、民主主義の関わる問題も単純かつ明瞭で、楽に対応できるようでなければならない。情報は日常経験から得られるままにというのなら、諸事情は孤立した地方のタウンシップの事情に近いものでなければならない。その環境はあらゆる人間が直接に確実な知識を得られる範囲に限定されなければならないのである。」
もともと、民主制政治はコミュニティ(村サイズ)を超える問題を扱うことを想定していなかった。もし、それを超えるスケールの問題があれば、よくわからないのが当然である。とくに、当時(250年前)は知るための手段も限られていた。ではどうしたかというと、人々は、既存の世界認識の枠組みに基づいて、都合よく情報を摂取、判断したのである。
「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る。外界の、大きくて、盛んで、騒がしい混沌状態の中から、すでにわれわれの文化がわれわれのために定義しているものを拾い上げる。そしてこうして拾いあげたものを、われわれの文化によってステレオタイプ化されたかたちのままで知覚しがちである。」