自分のステレオタイプを知り
他者のそれも知る

 個人にできることがあるとするならば、自分がある特定のステレオタイプに基づいて考え、判断していることを自覚することしかない。そして、意見の違う他者のステレオタイプについても知ることだ。

「自分の意見」もまた何らかのステレオタイプの一つの発露であり、そのステレオタイプはなぜ構築されたのか、その歴史的背景はどうなっていて、何を達成しようとしているのかを知り、そのうえで正しい可能性の高い選択肢を選択しようと努力することである。

 そして自分について知ると同時に、自分から見て荒唐無稽と思える思想や選択肢であっても、他者が主張している言説の本質はどのようなものであり、どのような背景から、何を目的として生まれているのかを知らねばならないのである。

 そして、その方法は、代表的な主義主張をその背景事情とともにマップ化して頭のなかに取り込むことであろう(それはたとえば、消費税増税を唱える財政緊縮派と減税を主張する積極財政派の思想的背景を知ることであり、財務省対経産省といった即物的な対立として見ることではない)。

新時代に自分の価値観が
壊れることを恐れない

 意見表明の前に、少なくともどんな主義主張があってどういう歴史があったのかなど、簡単なマッピングができるようにする。

 過去の知見の蓄積による見立てを知り、それは何を問題として、意見がわかれているのか、さらには、それと現実をどう結びつけて考えるか、場合によっては、最初に自分がおぼろげに考えた意見であっても、検証してみて違うと思ったら、違う意見に転向すること(人は自分がこうだと思ったらそれに固執しやすい「確証バイアス」がある)を厭わず、正しい行為として自分でも認めること。理想論だが、だれもがそのように考えるような社会を作っていくことが必要であろう。

 リップマンは、このように言っている。

「われわれは自分の偏見がもたらす途方もない害や、気まぐれな残酷さをはっきりと見る。偏見を打ち砕くことはわれわれの自尊心に関わってくるために、はじめは苦痛であるが、その破壊に成功したときは大きな安堵と快い誇りが与えられる。注意の及ぶ範囲がいちじるしく広がる。現在の範疇が解体すると、頑固で単純な世界観は砕ける。舞台は転じていきいきと豊かになる。ついで科学的方法を心底尊重するような感情的刺激が生じる。」

 リップマンが求めるような、「自分の持つステレオタイプを自覚し、深く考えることによって自己の考えが崩壊することをむしろ喜びと捉える人」は、100年後の今、“一貫性のない人” “ブレる人” として歓迎されないかもしれない。すべての発言がログで記録される時代になったことで、発言の自由度は薄れ、一度言った意見を容易に変えられず、特定の主義主張に人を張り付け、人は逃れられない状況に追い込まれているかもしれない。

 しかし現在は大変化の時代なのである。自分の価値観が変化することはむしろ当然のことなのだ。新時代を生き抜くのに、「過去と同じままの自分」でいられるはずがない。自分のステレオタイプからの脱出、転向は大いに奨励されるべきことなのである。

(プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 秋山 進、構成/ライター 奥田由意)