偏りのない「正しい」判断は
専門家や知識人にも無理
では、一体何が「偏っていない」「正しい」見方なのか。たとえば上記の問題について、専門家に聞けばいいのだろうか。もちろん気候変動の専門家はいる。けれども、おそらくCO2の排出量と地球の温度の相関性には答えてくれるが、将来の経済発展への影響や社会的コンセンサスの取り方まで含めた最適化についての答えは幅広すぎて科学的に答えられないだろう。政策決定過程の憲法上の問題点について詳しい学者はいるが、仮想敵国の整備している軍事装備の危険性や将来の戦略まで含めて、国家戦略のシナリオ分析と選択肢の提示をしてくれる人もなかなかいない。
また、専門家とは違って昔から、「総合的な知識人」という人がいた。その人たちが、専門家の意見を統合して、ありうる最適解のようなものを提示してくれればよいのだが、解くべき問題のあまりの複雑性に負けてしまっている。
専門家にも知識人にも現代のわれわれは全面的に頼ることはできない。
結局、シロかクロか
極端な決めつけが横行
その結果、またさきほど前の段落で書いたような、わからないから自分が意識せずに前提にしている「ステレオタイプ」に戻って、それに基づいて、シロかクロ、左か右、反政府か親政府(以前なら反アベかアベ支持か)、気に入るか気に入らないか、(自分基準の)善か悪か、挙げ句の果ては、なんでも賛成かなんでも反対といった極端な態度で決めつけるように判断するということが起こっている。
そして、互いが闘争モードになり、闘争そのものの魅力によって参加者が増え、仲間内の承認の獲得のため相手を非難する言動がヒートアップしている。SNSでよくある炎上である。これはポラライゼーション(二極化)という民主制政治の危機である。
しかし、私たちは、250年前にジェファーソンが想定していなかった「村サイズ」以上の難しい民主制政治を行い続けており、それに代わるもっとよい政治システムがあるかどうかを知らない(偉大な知性による賢人政治か、一党支配による社会主義政治が考えられるが、前者は実現不可能であり、後者は存在しているが、これはいずれも、極端な例であり、二極化していて、「中庸」「普通」ちょうどよい加減の政治システムではない)。